関東大震災と虐殺 21

 それではこの9月3日に起きた、さまざまな虐殺事件を見ておきましょう。

 まず、午後3時ごろ、南葛飾郡大島町(現・江東区)周辺で、大規模な中国人虐殺事件(大島事件)が発生しています。(⑨p.61~4) このあたりは大戦景気のなか来日し、工場などで働く中国人労働者千数百人が、60数軒の宿舎に集住していました。9月3日の昼頃、中国人宿舎に軍・警察・青年団があらわれ、大島8丁目の空き地まで多くの中国人を連れ出します。付近に住んでいた木戸四郎の証言です。
 5、6名の兵士と数名の警官と多数の民衆とは、200人ばかりの支那人を包囲し、民衆は手に手に薪割り、とび口、竹やり、日本刀等をもって、片はしから支那人を虐殺し、中川水上署の巡査の如きも民衆と共に狂人の如くなってこの虐殺に加わっていた。
 さらに午後3時頃、習志野騎兵連隊の岩波少尉以下69名、三浦少尉以下11人の部隊も虐殺に加わります。この虐殺を最大として、この日、大島の各地で同様の事件が起こり、殺された中国人の数は300人以上と見られます。言うまでもありませんが、当時の中国は中華民国という独立国、よって多数の中国人を日本の軍・警察・民衆が虐殺したということは、たいへんな国際問題です。
 8丁目の虐殺の唯一の生存者である黄子連が10月に帰国し、この事実を中国のメディアに語ったため、それまで日本救援ムードが強かった中国の世論は一変、日本への抗議の声が沸騰しました。郷里に帰った黄は、虐殺時に負傷した傷が化膿し、吐血するようになり、しだいに体を壊して2、3年後に亡くなりました。
 それでは何故このような大量殺人が行われたのでしょうか。震災時、朝鮮人が放火や爆弾といった流言のターゲットにされていたのに対して、中国人については流言が広がっていたという事実はありません。大島町の虐殺は、朝鮮人虐殺に見られるように混乱の中で衝動的に行われた様子もなく、むしろ明らかに計画性が伺えます。
 関東大震災時の中国人虐殺の研究を続けた仁木ふみ子氏は、その背景に人夫請負人(労働ブローカー)の意図があったと推理しています。第一次世界大戦に伴う好況も終わり、数年前から不況が始まっていました。日本人より2割も安い賃金で働く中国人労働者の存在は、日本人労働者にとっても、彼らを手配し、賃金をピンハネする労働ブローカーにとっても目障りであり、排斥の動きが起こっていました。一方、中国人を安く使っていた日本人ブローカーにとっても、僑日共済会の指導によって未払い賃金の支払い要求などを起こすようになった中国人は、もはや使いにくい存在になっていました。なお僑日共済会とは、社会事業家・王希天(ワン・シテイエン)によって1922年12月に結成された中国人救済組織です。この王希天という名前は記憶に留めておいてください。
 警察も中国人労働者を好ましく思っていませんでした。当時の大島町を管轄する亀戸署(署長・古森繁高)は、管内に労働争議の多発する工場を多く抱えていることから、公安的な任務を強く負った署でした。そのうえ中国人にまで労働運動を起されてはたまらない。行政レベルでも、日本人労働者保護のためとして、中国人労働者の入国制限・国外退去などを進めつつありました。
 労働ブローカーと警察が、朝鮮人虐殺で騒然としている状況に便乗して、日本人労働者をけしかけ、さらに「朝鮮人暴徒鎮圧」の功を焦る軍部隊を引き込み、中国人追い出しというかねての悲願を実行に移したのだ-というのが仁木氏の見立てです。そうであるとすれば、ほかの朝鮮人虐殺とはかなり様相の異なる事件です。いずれにしても、ディスプレイから腐臭がただよってくるような、悪辣かつ没義道な事件です。

 なお震災下で、虐殺された中国人の総数は、いぜん明らかになっていません。この大島町事件に加えて、横浜地区でも約150人の中国人が虐殺されという史料があります(ねずまさし 『日本現代史』4)。また神奈川県足柄郡土肥村で熱海線の工事に従事していた中国人労働者が被害に遭いました。(⑪p.ⅶ) 少なくみても、400人以上の中国人が軍隊・警察・民衆に虐殺されたといえそうです。(⑩p.57)
by sabasaba13 | 2017-10-09 07:22 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)
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