この9月3日から5日にかけて、千葉県船橋近辺で、自警団によって引き起こされた虐殺事件が多発しました。その犠牲者のほとんどが、北総鉄道(現在の東武野田線)の敷設工事に従事していた朝鮮人動労者でした。
松島(現在の東武野田線塚田駅近く)の飯場から船橋警察署に連れて行かれた朝鮮人労働者は、船橋警察署前で自警団に殺傷されました。また、鎌ヶ谷粟野の飯場から船橋送信所に連れて行かれた朝鮮人労働者は、船橋送信所で引き取りを拒否され、送信所の警備にあたっていた騎兵を同行させて、船橋警察署へと向かいますが、その途中の天沼近くで自警団に殺傷されました。その状況について渡辺良雄さんは、「警鐘を乱打して、約五百人位の人達が、手に竹槍や鳶口等を持って押し寄せて来た。私はほかの人達に保護を頼んで群衆を振り分けながら船橋警察署に飛んで戻った」「私が直ぐ引き返して行くと、途中で、『万歳! 万歳!』という声がしたのでもう駄目だと思った」「調べてみると、女三人を含め、五三人が殺され、山のようになっていた」と回想しています。
また天沼での虐殺とは別に、鎌ヶ谷粟野にいた朝鮮人労働者が9月4日夜に、市川若宮の北方十字路で自警団に襲われ、13人が虐殺されました。この朝鮮人労働者は虐殺事件があった船橋を避けて、市川警察に向う途中でした。ここでは、翌5日にも朝鮮人の飴工場の職工数人も虐殺されています。
北方十字路での虐殺事件については、旧法典村の自警団の一人であった高橋定五郎は、「無線の海軍所長が浦安、行徳に六〇〇人の「不逞鮮人」が来るから今夜警戒たのむと、銃を渡されて、二声かけて返事がなかったら、撃ってもいい」、「海軍無線の所長が命令するぐらいですから、ほうびをもらえると思ってやったのに」と、海軍の船橋送信所所長が朝鮮人の殺害を許可したと証言されています。当時、船橋送信所では、朝鮮人からの襲撃を恐れて、習志野の騎兵連隊へ出動を要請し、地域の自警団も動員して周辺を警備させていました。
自警団による事件が多かった一方で、同じ船橋でも朝鮮人労働者を助けた自警団もありました。朝鮮人労働者が船橋市丸山の「おこもり堂」(慈眼院)を飯場として生活していて、震災当時、二人の朝鮮人がそこに残っていました。他の地区の自警団が丸山に押し寄せ、朝鮮人の引き渡しを要求しましたが、丸山の自警団はそれに応じず、二人の朝鮮人を無事に船橋警察署に届けています。
以上のような虐殺事件をふまえ、
馬込霊園には、朝鮮人犠牲者を追悼する「法界無縁塔」と「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」が建てられています。「法界無縁塔」は1924年9月1日に船橋仏教連合会により建立されました。「(朝鮮人が)たとえ悪いことをしたにしても殺されたのはかわいそうだ」と流言を否定しないまま建てられたこの碑には、「法界無縁塔」という文字と日付しか記されていません。一方、在日本朝鮮人聯盟によって1947年に建てられた「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」には、日本政府が朝鮮人を虐殺させたとはっきり記されています。(⑭p.8~10)
石橋大司氏が、横浜の久保山で、半裸体で電信柱に縛り付けられ血まみれになった朝鮮人の死体を見たのがこの9月3日でした。敗戦後、殺された朝鮮人を慰霊するために「少年の日に目撃した 一市民之建」と記した碑を自費で建立しますが、よろしければ
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また、朝鮮人の暴動・放火という流言蜚語は、新聞などを通して全国に広められています。新聞社の判断なのか、官憲による指示・教唆があったのかはわかりませんが。例えば、宮城県の『河北新報』には、下記の記事が掲載されました。
朝鮮人大暴動 食糧不足を口実に盛に掠奪 神奈川県知事よりは大阪、兵庫に向かひ食料の供給方を懇請せり。東京市内は全部食料不足を口実として全市に亘り朝鮮人は大暴動を起こしつつあり… (1923.9.3)