関東大震災と虐殺 52

 そして、竹久夢二は、『自警団遊び』など、虐殺に関する絵を描いています。

 また吉野作造、布施辰治、秋田雨雀、中西伊之助、難波大助の存在も銘肝しましょう。『日本の歴史14 明治時代中期から1920年代 「いのち」と帝国日本』(小松裕 小学館)より引用します。
 朝鮮人虐殺について、日本人の側からの批判はまったくなかったのであろうか。数は少ないものの、声をあげた日本人がいたことも忘れてはならない。
 吉野作造は、虐殺事件を〈世界の舞台に顔向けの出来ぬほどの大恥辱〉であるととらえ、流言を伝播させた官憲の責任を追及すると同時に、女婿の赤松克麿を使って独自に犠牲者の調査を行なった。そして吉野は、合計2613人の朝鮮人が虐殺されたとしたが、そのことによって軍部に抹殺されそうになった。真相を暴露するために「圧政と虐殺」と題する文章を『大正大震災誌』(1924年〔大正13〕)に寄稿しようとしたが、これも内務省より公表を差し止められた。
 吉野以外で注目できるのは、弁護士の布施辰治である。布施は、1920年5月に「自己革命」宣言を行ない、社会運動の闘士として、法廷よりも社会で活動することを宣言すると同時に、法廷で取り扱う事件も、官憲に無実の罪を押しつけられた冤罪事件、弾圧と闘う無産階級の事件、人間差別と闘う事件、朝鮮人・中国人の利益のために闘う事件などの六項目に限ることを誓っていた。
 朝鮮人虐殺事件に関して、布施が所属する自由法曹団は真相調査を行なうことを決定し、〈少なくとも六七千の問題数が残る〉と犠牲者の数を推定している。そして、布施は〈×(殺)されたものの霊を吊うの前に先ず×(殺)したものを憎まねばならぬ、呪わねばならぬ、そしてその責任を問うべきである〉と激しく批判した。さらに、朴烈・金子文子大逆事件の弁護を買って出て、二人は朝鮮人虐殺事件の「弁疏」のために検挙されたと指摘した。
 脚本家で児童文学者であった秋田雨雀も、『芸術新潮』1924年4月号に発表した戯曲「骸骨の舞跳」のなかで、ひとりの青年に、自警団こそ国家の権威に盲従し、国家に操られている〈生命のない操り人形〉すなわち「骸骨」であることを指摘させ、〈日本人を苦しめているものは/朝鮮人じゃなくて日本人自身だということ、/そんな簡単な事実が諸君には解っていないのか?〉と語らせている。
 もうひとり、プロレタリア作家の中西伊之助をとりあげてみよう。中西は、実際に、1909年(明治42)から15年まで朝鮮に居住し、『赭土に芽ぐむもの』(1922年)をはじめ、朝鮮や朝鮮人を素材としたたくさんの作品を書いている。中西が『婦人公論』1923年11月・12月合併号に発表した「朝鮮人のために弁ず」は、新聞報道によって垂れ流される〈不逞鮮人〉イメージを批判し、今回の虐殺事件の背景は、ジャーナリズムによって形成された日本人の潜在意識のなかにある〈黒き恐怖の幻影〉が〈爆発〉したものではなかったかと指摘した。
 中西は、朝鮮人との連帯を模索しつつも、日本人としての自分と朝鮮人とのあいだにはなお容易に越えられない断層があるとして、その点にこだわりつづけた。そして、たんに植民地支配の重圧に押しひしがれている存在としてではなく、苦闘のなかでそれを跳ねのけるだけの主体性が、朝鮮人のなかに形成されていることを見いだしていった。
 1923年12月27日、東京虎ノ門で皇太子に対して至近距離からステッキ銃を発射し逮捕された難波大助は、事件前、東京深川の木賃宿で中国人や朝鮮人労働者と雑居していた。そして、朝鮮人が何もしていないのに警官に殴られるシーンをたくさん見てきた。5月1日のメーデーで、ひとりの朝鮮人が演説をしようとしたところ、それを許そうとしない官憲の横暴に憤慨した大助は、演壇に突進して警官と殴り合った。彼が天皇制の否定に至るのは、このような朝鮮人に対する圧政を他人事とは思えず、彼らの怒りを共有するようになっていたからである。
 事件は、運転手の機転でとっさにハンドルを切ったために、幸い皇太子は無事であったが、大助は大逆罪で死刑となった。衆議院議員であった父親はただちに辞職し、長兄も会社を辞めた。(p.315~7)

by sabasaba13 | 2017-12-20 06:25 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)
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