関東大震災と虐殺 60

 そして最後に考えたいのは、当時の人びとが、なぜこうした虐殺を、そしてそれを生みだした制度・社会構造・価値観を許容してしまったのかという問題です。

 まず、自らの不幸と苦悩の原因が国家機構や社会制度にあるということを見抜けなかったことが挙げられます。既述のように、その鬱憤を晴らすために、集団に埋没して、弱者を差別・迫害したわけです。きちんと考え抜いて、議論をして、社会を改革して正当な分配を実現すれば、その不幸と苦悩も多少は軽減されたことと思います。しかし、国家権力によって、そうしたことを考えさせない教育、実行させない制度(ex.軍隊・警察・法律・裁判…)が網の目のようにはりめぐらされ、大きな困難が伴いました。そして民衆自身が考えることを怠り、面倒くさがり、思考や判断を集団や権威に丸投げしてしまったことも見逃せないと考えます。楽ですから。『日本の百年6 震災にゆらぐ』(今井清一 千曲学芸文庫)で知ったのですが、里見弴が書いた小説『安城家の兄弟』の中に次のような一節があるそうです。(p.168~70)
 …翻って、狭い中の口の三和土に押し並んで立っている二人の自警団的人物はというに、これはまた、大杉についても、甘粕についても、二人のあいだに起こった事件についても、自分自身のあたまで、時間で言えば一分とつづけて、とっくり考えてみたことなどないにきまっている人間だった。何もこれは、この場合に限ったことではなく、じたい民衆というものが、群り動く性質をもっていて、ものの感じ方が、凡庸な常識一点ばりに陥り、たちまち『輿論』というものを生みだすのだ。それを思うと、雨に濡れ、護謨底足袋を泥だらけにして、目の前に突ッ立っている、この『輿論』の手先どもも、馬鹿げて見えこそすれ、憎むまでの気にはなれなかった。
 そして「どんな事態になっても、人間にはしてはならないことがなければならない」(『レイテ戦記』 大岡昇平)という道義性が欠けていたということ。夏目漱石の恩師マードック先生言うところの"モラル・バックボーン"ですね。(『漱石文明論集』 岩波文庫 p.222) あるいは加藤周一氏の表現を借りれば、"目の前で子どもを殺されたら怒る能力"です。(『歴史の分岐点に立って 加藤周一対話集5』 かもがわ出版 p.153~4) それを支える想像力や人間的な感情が、なぜ麻痺してしまったのか。わかりません。わかりませんが、政治学者ハンナ・アーレントが言う"悪の凡庸さ"とは、このことではないかと思います。映画『ハンナ・アーレント』から、彼女のセリフを引用します。
 彼のようなナチの犯罪者は、人間というものを否定したのです。そこには罰するという選択肢も、許すという選択肢もない。彼は検察に反論しました。何度も繰り返しね。"自発的に行ったことは何もない""善悪を問わず自分の意思は介在しない""命令に従っただけなのだ"と。こうした典型的なナチの弁解で分かります。世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は"悪の凡庸さ"と名づけました。

by sabasaba13 | 2018-01-09 06:27 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)
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