関東大震災と虐殺 62

 やれやれ、立ち眩みしてしまいます。かつて虐殺・犯罪・いくさを生みだした文化(制度・社会構造・価値観)が十全に払拭されていないということは、また起きる危険があるということです。
 それでは、私たちは、私は、どうすればよいのか。まず過去の過ちを認め、それを生みだした文化の存在を認めて、眼を逸らさずに向き合うことから始めるしかないでしょう。これに関して、大沼保昭氏の言葉に勇気づけられました。
 過ちを犯したからといって卑屈になる必要はない。過ちを犯さない国家などというものは世界中のどこにもないのだから。しかし、過ちを犯さなかったと強弁することは自らを辱めるものであり、私たちの矜持がそうした卑劣を許さない。私たちの優れた到達点を率直に評価し、同時に過ちを認めるごく自然な姿をもつ国家こそ、私たちが愛し誇ることのできる日本という国ではないか。私はそう思う。(「日本の戦争責任と戦後責任」 『国際問題』 501号 2001年12月号)
 ふたつめは、大沼氏も指摘されているように、日本に限らず国家は過ちを犯すものだと認めること。そして安易に国家と自分を同一視・同一化しないことです。国家とは悪辣な行為をしばしば行なうろくでもない存在であり、程度の差は少々あるとしても日本もアメリカも中国も韓国も北朝鮮もフィリピンもヴェトナムもタイも(以下略)似たようなものだと、醒めた目で見つめ距離を置くことが肝要だと思います。さもないとまた"スパイクをうちこんだ国家という車輪の下敷きに"されてしまいます。(『彼らは自由だと思っていた -元ナチ党員十人の思想と行動-』 M・マイヤー 未來社 p.184) いくつかの言葉を紹介しましょう。
永続敗戦論』(白井聡 太田出版)
 このように、国家の行動というレベルで日ソ両国の行なってきたことを振り返るならば、「どっちもロクでもない」としか論評の仕様がない。一般的に言って、国家の振りかざす「正義」なるものが高々この程度のものであることは、何度でも肝に銘じられるべきである。(p.87)

「私の個人主義」(『漱石文明論集』 岩波文庫)
 …国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくら八釜しくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きを置く方が、私にはどうしても当然のように思われます。(p.137)

 最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、悪辣で、馬鹿みたいなことをしている時に、それを言ってやることだ。(ジュリアン・バーンズ)

by sabasaba13 | 2018-01-13 06:54 | 関東大震災と虐殺 | Comments(1)
Commented by エネルギー名無し at 2018-09-23 12:34 x
> 最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、悪辣で、馬鹿みたいなことをしている時に、それを言ってやることだ

 自国に冤罪被せて世界中に触れ回る事が「真の愛国心」なんでしょうかね。
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