近江編(69):竹生島(15.3)

 それで見学に参りましょう。港から見上げると、斜面に点在する狭い敷地に建物がひしめいている様子がよくわかります。拝観料400円を支払い、「祈りの階段」と呼ばれる165段の急な石段をのぼると(はあはあ)宝厳寺本堂に着きました。
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 竹生島宝厳寺は、724 (神亀元)年聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりだそうです。豊臣秀吉との関係も深く、多くの宝物が寄贈されました。しかし1868(明治元)年に発布された『神仏分離令』によって、大津県庁より、ここを廃寺とし神社に改めよという命令が下りました。しかし信者の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなりました。これが「都久夫須麻神社(竹生島神社)」ですね。
 宝物殿、三重塔を経て唐門へ。
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 補修のためシートで覆われ、全貌を見ることができないのが残念。でも華麗で豪壮な彫り物を堪能することができました。千社札がところ狭しと貼られ、美観を損ねているのが気になりますが。
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 解説があったので転記します。
 慶長7・8年(1602・3)豊臣秀吉の子秀頼によって、京都豊国廟(秀吉の亡がらを葬った廟所)を竹生島に移築するかたちで、当時荒廃していた竹生島の伽藍整備が行われました。この時、豊国廟の極楽門が移築され現在の宝厳寺唐門になったといいます。豪華絢爛と評される桃山様式の建造物の特徴がよく表れており、破風板内部の正面中央には大型の蟇股が置かれ、その内部は牡丹の彫刻で埋められています。蟇股の外部や脇羽目なども多彩な彫刻で埋め尽くされ、極彩色で飾られています。現在は、長年の風雨によりその華やかな色もずいぶん褪せていますが、建立当初は、黒漆塗りの躯体と、赤・黄・緑などの極彩色とが鮮やかなコントラストで映えていたことでしょう。
 さて、この唐門は京都から移築されてきたものですが、実は、その前に一度移築を経験しています。このことが最近ある大発見によってよりクローズアップされてきました。2006年、オーストリアのエッゲンベルグ城に飾られていた壁画が、豊臣時代の大坂を描いた?風絵であったということが判明したのです。そこには、大坂城の本丸と二の丸の間にかかる屋根や望楼を持つ豪華な橋・極楽橋が描かれていたのです。この橋は、慶長元年(1596)に京都の豊国廟へ移築され極楽門として設置されたことが分かっています。さらに、慶長7年(1602)に竹生島に移築され現在に残っているというわけです。江戸時代の初期に徳川家によって 破却された豊臣時代の大坂城の一部が唯一、竹生島に現存しているのです。秀吉が、初めて城持ちの大名となった地である長浜に、栄華を極めた秀吉の象徴とも言える大坂城の遺構が唯一残っていることは、深い因縁を感じさせます。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-01-30 06:31 | 近畿 | Comments(0)
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