近江編(74):菅浦(15.3)

 さて、これからがいよいよ本日の難関、次の訪問先は、琵琶湖の最北端にある菅浦という集落です。歴史学徒の末席を汚す者としてぜひ訪れたい、中世の誇り高き自治村落です。長文ですが、『週刊朝日百貨 日本の歴史20 琵琶湖と淀の水系』(朝日新聞社)より、「湖に生きる人びと 粟津・堅田・菅浦」(今谷明)を引用します。
 菅浦は琵琶湖の最北端付近、湖上に突出した半島、葛籠尾(つづらお)崎の切り立った湖岸の、猫の額ほどの入江にへばり付いたような寒村である。戦後もつい最近まで、自動車の入る道すらなく、この集落の人びとは大浦から舟で行き交うか、さもなくば峠づたいに細々とした杣道を数時間かかってようやくたどりつくといった有様であった。このような隔絶した地理的環境が、中世史上稀有といっていいほどの強固な自治村落を築き上げるのに、大きな要因となったことは否定できない。
 この漁村の沿革は、堅田と同様、平安中頃から贄人の小集団がこの地に住みつき、漁撈と舟運に従事したことに始まるとされる。ここの漁民が供御人として自立したのは、平氏政権の初期であるが、いつしか自らを天智天皇の供御人の末裔として喧伝するようになった。中世初期には、荘園内の人の支配と土地の支配が異なる例が多かったが、ここの漁民は、身は天皇に属する供御人でありながら、菅浦の地は山門檀那院末寺竹生島の領地となっていた。
 漁業を生活のたつきにしていたとはいえ、せめて主食の米麦くらいは自給したいという願望は強かった。鎌倉初期、菅浦漁民は西隣の園城寺円満院領大浦荘の一部、日指・諸河という狭小の地を農地として開発・耕作していたが、園城寺の課役を免れるため、山門と朝廷の権威を背景に、この地の田畠は古来菅浦の所領であると主張し、ここに以後150年におよぶ園城寺を相手とした村の自立のための訴訟が始まった。ときに永仁3年(1295)のことである。
 この相論は、明らかに大浦荘内の出作田地にかかわることで、理は園城寺側にあり、院の評定も初めは菅浦に不利なものであった。しかし村をあげて結束した菅浦の漁民は、自立を貫徹するために日吉社から150貫という、一漁村としては法外な訴訟費用を借用した。さらに朝廷の内蔵寮を管掌する山科家の援助を受けるために、日指、諸河を実力占拠して山科家に寄進し、鎌倉末ごろには鯉三十喉、大豆一石、小豆二斗、小麦一石を同家に負担するという契約を結んだ。
 大浦荘側も決して拱手傍観はしていなかった。稲を刈り取ろうとする大浦荘百姓と、それを阻止しようとする菅浦漁民、そして菅浦の応援にはるばる坂本から駈けつけた山門公人、日吉社神人らの間に、しばしば刃傷沙汰が繰り返された。訴訟は園城寺と延暦寺の対立に拡大し、朝廷もうかつには裁許を下せず、やがて延慶2年(1309)、停滞状況に陥った。
 これこそ菅浦の狙っていた状態であった。漁民らは既得権として日指・諸河を事実上支配し続けることになったのである。その後、曲折を経ながらも室町末期に至るまで、強固な結束と村落の自治を全うした。このような団結と自衛の基盤となったのは、先に述べたように険阻な地理的要害性に加えて、虎の子の日指・諸河の田地を村内各戸に均等に分配し、村民の間に経済的格差が広がらないように慎重に配慮したこと、また七十二の在家の全住民に供御人としての身分と特権を保証したことであろう。
 京都から遠く離れた湖上の僻地に、中世を通じて名も無い漁民らが、昂揚した自立意識を保持し続けていたということは驚異である。むろん、この栄光の自治を維持するために、菅浦の民衆は経済的犠牲を払った。さらに、訴訟に勝つためには手段を選ばず、朝廷の故実に通暁する山科家と結託して偽文書・偽絵図まで作成し、ついに園城寺をやりこめるに至った彼らのしたたかさは、下克上の時代の典型的な民衆の姿でもあった。
 こうして室町時代に入ると、菅浦は山科家と山門に若干の経済的負担を行うのみで、「自検断」「地下請」と呼ばれる、ほぼ完全な警察権・徴税権を獲得した。自治を円滑に遂行するために「惣掟」「置文」などの村落法を自らの手で公布し、「乙名」「沙汰人」と称する宿老を選出して村政を運営した。15世紀になると、時折、堅田衆の湖賊行為に悩まされるほかは平和が続き、菅浦の自治は黄金時代を迎える。
 ところが文安2年(1445)、再び大浦荘との間に大規模な入会地の山木相論が勃発した。双方の住民の間に死傷者の出る流血の惨事が繰り返されたが、この争いで菅浦に勝利をもたらしたのが乙名清九郎であった。清九郎はおそらく畿内近国の村々に多くいたであろう村民の英雄の一人で、時代が生み出した輝かしい人物である。中世の民衆は権力に対して自らを卑下せず、卑屈な態度をとっていない。清九郎の生涯から教えられるのは、名も無い中世の庶民が自らの厳しい生活経験を通して高い精神的境地に達していたということである。(p.5-268~71)
 ただ問題は、あまりにもアクセスがよくないことです。バスも列車も非常に本数が少なく、移動は困難を極めます。いろいろと調べたのですが、前後の行程を勘案すると結論はひとつ、永原駅からタクシーで行くしかないようです。問題は、駅でタクシーがつかまえられるかどうか。人事を尽くして天命を待つ、とにかく行くことにしました。
by sabasaba13 | 2018-03-23 06:26 | 近畿 | Comments(0)
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