『知らなかった、ぼくらの戦争』

 『知らなかった、ぼくらの戦争』(アーサー・ビナード編著 小学館)読了。詩人のアーサー・ビナード氏が、23人の戦争世代からその体験談を聞くという内容です。そのインタビュイーが多彩で、私も知らないことが多く、たいへん興味深く面白い本となりました。たとえば、義母の栗原澪子さん、ゼロ戦パイロットの原田要さん、強制収容された日系人のリッチ日高さん、ソ連軍によって択捉島を追われた鳴海冨美子さん、大久野島の毒ガス製造工場に学徒動員された岡田黎子さん、硫黄島で戦った秋草鶴次さん、日本海軍特別少年兵だった西崎信夫さん、満州から引き揚げたちばてつやさん、台湾で暮らした与那国島出身の宮良作さん、鉄血勤皇隊員として沖縄戦を戦った大田昌秀さん、中島飛行機で働いていた古内竹二郎さん、岡山で空襲を体験した高畑勲さん。もちろん他の11人の方々のお話もたいへん貴重なものでした。
 戦争を経験した状況、場所、年齢はそれぞれ違いますが、みなさんの思いに通底しているのは「戦争は醜い」ということです。例えば原田要さんはこう語っています。
 軍医は重傷者を放っておいて。わたしのところにすぐ来て聴診器を当てるんです。
 「わたしは体がしびれているだけだから、こんなわたしじゃなくて、『水! 水をくれ!』って苦しんでいる人のほうを早く診てやってくれ」と頼んだ。すると軍医は、なんのためらいもなくこう答えた。「きみ、これが戦争なんだ。ちゃんと使える人間を先に診て。重傷を負ってもう使えなくなった者は、いちばん後回しだ。これが戦争の最前線の決まり」
 兵士は結局、機関銃や大砲や戦闘機と同じなんだ。使えなくなれば捨てられる。わたしはそのとき、戦争を憎むひとりになった。戦争で幸せになる人はひとりとしていない。(p.27)
 しかしこの醜い戦争に国民を協力させ加担させるには、カラクリや仕掛けが必要です。ビナード氏は、さまざまな方のさまざまな話を聞きながら、そうしたカラクリや仕掛けを、見事な手さばきで剔抉していきます。例えば…
 それなのに、強制収容所にぶち込まれたのは、なぜなのか?
 アメリカ政府の巧妙な手口が、徐々にぼくには見えてきた。
 1940年代の初め、多くの日系人はまじめに働き、それぞれの地域社会に貢献しながら日々、白人とも黒人ともラテン系とも中国系の人びととも触れ合っていた。そうすると「ジャパニーズも人間なんだなぁ」と、みんな日常生活の中で確認することになる。そんな状況がつづけば、焼夷弾で日本人を万人単位で焼き殺すような作戦は喜ばれず、非難されかねない。ましてや無防備の民間人に原子爆弾を投下するなんて、支持を得られる行為ではまったくない。
 だからこそ日系人を癌細胞のように扱い、アメリカ社会からさっさと摘出したのだろう。
 だれも彼らの人間性に触れることができないように、荒れ地のキャンプに閉じ込めて隔離したわけだ。1941年から大々的に始まった「ジャップ」を蔑むプロパガンダのネガティブキャンペーンにも、そんな狙いが透けて見える。
 1942年2月19日の大統領令は、真珠湾攻撃への対処というより、攻撃に乗じた長期計画の出発点だったんじゃないか。
 いずれにしろ、アメリカと日本の関係を考える際、アメリカ政府が日系人に対して行ったことを外してはならないと思う。今までそれが外されて、日米の歴史は盲点だらけだ。(p.39~40)

 いったいぜんたい、こんな有害な施設がなぜ竹原の美しい島に押しつけられたのだろう?
 疑問に思い、ぼくは「毒ガス資料館」のスタッフに尋ねた。
 「実は地元が積極的に誘致して、中央行政と折衝を重ね、来てもらったんです。もちろん経済効果を期待してのことでした」と話してくれた。
 これは各地に原子力発電所が造られた経緯とそっくりではないか。聞こえのいい「雇用創出」とか「地域振興策」が売り文句で、しかも事故の連続、隠蔽の連続、現場労働者の犠牲までも共通している。(p.61)

 瀬戸内海の島で毒ガスを作っていたという歴史を、日本の政府や企業、工場で働いていた多くの人たちも、できることなら、なかったことにしたかった。でも、なかったことにはできない。
 一人の市民が大きな組織的隠蔽にあらがうためには、何度も調査し検証して、裏を取らなければならない。そうしなければ、歴史から消されてしまいかねない。(p.68)

 また、上官から「残務整理」を命じられ、書類を一切合切焼く任務だったというエピソードは、日本の支配層の歴史の扱い方を如実に表していると思う。マヤカシの美化と記録を消す証拠隠滅とは、同じ体質から生じる現象だろう。
 「本土決戦」「一億火の玉」と庶民に残酷なプロパガンダを浴びせつつも、自分たちだけが助かる出口戦略を用意して、責任をとらずに再就職もできる準備をぬかりなく進めていたのだ。(p.111)

 敗色が濃くなるにつれ、精神力がいっそう強調された。戦車に模したリヤカーに向かって突撃を繰り返したり、空に向けて竹槍をひたすら振ったりといったエピソードをたくさん聞いた。国威発揚というより、むしろ反乱防止の効果が大きかった気がする。庶民をみんな、まったく余裕のない状態にしておくということ。そう考えるとこっけいどころか、ただ物悲しい。(p.132)

 沖縄の学校で、自分がかつて受けた教育を振り返り、大田さんは「生徒を試験管に入れて純粋培養」とたとえて語った。思想の自由とは相容れない「皇民化」が、その教育の最大の狙いであり、純度の高いカリキュラムを組み立てた政府は、社会の多様性を忌み嫌っていた。
 なぜなら、古今東西の哲学者や政治家や宗教家や篤農家や文学者の幅広い知恵に、人びとがアクセスできてしまうと、学校を通じた愚民教育はうまくいかないからだ。
 「お国のために命をささげることが人間としていちばん正しい生き方だ」と、しっかり教え込むためには、まず人間と動植物と地球と宇宙の過去と現在の大部分をシャットアウトする必要がある。「試験管に入れて純粋培養」とは言い得て妙だ。(p.154)

 言葉があふれ返っていることは間違いない。映像に至っては洪水状態だ。それらにアクセスする飛び道具も激増して、でも、多様性につながっている形跡がない。
 現代社会の議論が活発というわけでもなく、むしろ思想が萎えてしまっている印象が強い。大事な情報が一般に伝わっているとはとうていいえない。
 日本の学校に目を向ければ、一種の純粋培養が行われているようにも感じられる。「お国のため」というより「お受験のため」が名目だが、深く考えて本質を探る教育にはほど遠い。
 古本屋街に積まれている人類の英知が、宝の持ち腐れになってはいないか。スマホで簡単にタッチできるアイコンのほうが、ぼくらの思考回路において支配的かもしれない。
 試験管の中から抜け出て、現実を直視してきた大田さんと語り合って、最新型の試験管から抜け出るにはどうすればいいのか、ぼくは大きな宿題をもらった。(p.155)

 「敵性語」といったキャッチコピーは、筋が通っているように見えて、実態は矛盾だらけだ。「鬼畜米英の言葉など学んではダメだ!」と、大日本帝国はキャンペーンを張ったが、その真の目的は、一般市民が日本語以外の情報源にアクセスできないようにすることだったのだ。意地悪な言い方をすれば「愛国のパッケージに包んだ愚民政策」であった。(p.163)
 こうした貴重な証言を無駄にしないために、そして犠牲となった多くの人々を犬死としないためにも、戦争を促すカラクリや仕掛けに騙されない力、政府の嘘を見抜く力を身につけたいものです。

 なおちょっとジーンときたのが、ちばてつや氏のエピソードです。ちば一家は、敗戦時に多くの日本人が中国人による報復などの苦難に直面した中、無事に満州から引き揚げることができました。彼の父の同僚であった徐集川さんという中国人が、ちば家を救ってくれたそうです。それと聞いたビナード氏、はたと気づいて、『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈の名前は、徐(じょ)さんが源ではないかと訊ねます。ちばてつや氏はびっくりして、「そうか…そうかもしれないです」と答えます。実は他にも、『紫電改のタカ』の主人公は滝城太郎、『走れジョー』の主人公の名前も城太郎。無意識のうちに徐さんに恩を感じていたのかもしれない、と語ります。(p.121)

 というわけで、お薦めの一冊です。ただ惜しむらくは、加害者となった方の話がないことです。もちろんさまざまな難しい制約があることがわかってはいますが、戦争の全体像を把握するためには、欠かせないことだと思います。続編を待っています。
by sabasaba13 | 2018-04-29 06:26 | | Comments(0)
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