仁淀川編(4):自由民権記念館(15.8)

 鏡川を渡り、ガタコンガタコンと走り抜ける路面電車と競争しながらペダルをこぎ、自由民権記念館へと向かいます。なお山ノ神のサングラスが破損したので、途中にあったコンビニエンス・ストアで瞬間接着剤を購入。これが後に、思わぬところで役に立ちました。
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 そして自由民権記念館に到着。公式サイトより、設立の趣旨について引用します。
 「自由は土佐の山間より」といわれるように、近代日本の歴史に土佐の自由民権運動は大きな役割を果たしました。高知市は、この壮大な日本最初の民主主義運動の高まりの中で誕生しました。高知市制100周年を記念するに当たり、自由民権運動の資料を中心に土佐の近代に関する資料を広く収集・保管・展示して、確実に次の世代へ引き継いで行くために自由民権記念館を建設しました。自由民権記念館は、自由民権運動と土佐の近代史から学び、その意義を現代および未来に生かすものとして市民自治と文化の新たな発展に寄与することを目的としています。また、高知市民・県民が誇る最大の財産である自由民権の思想を継承・発展させ自由民権記念館を高知市の新たな100年へのシンボル施設とします。
 うーむ、"壮大な日本最初の民主主義運動"か… 気持ちはわかるし、確かにその通りだと思いますが、自由民権運動にはさまざまな陰影や複雑な襞があったことも忘れずにいたいものです。不勉強の故、それをまとめる力は私にはありませんが、識者による指摘をいくつか紹介してお茶を濁します。
(片山杜秀) さて、暴力的な反乱が鎮圧されると、士族の怒りは自由民権運動というかたちで展開します。自由民権運動というと、デモクラシーの萌芽のように言われますし、たしかにそういう側面もあるのですが、事の起こりを見れば、薩長だけがいい思いをしていることに対して怒った士族たちが「自分たちも政治に参加させろ」という動機で動いていた面が強くありました。(『近代天皇論 -「神聖」か、「象徴」か』 片山杜秀・島薗進 集英社新書0865 p.78)

 自由民権運動とは、政府に向かって「国民の権利」を要求すると同時に、民衆に向かって「国民としての自覚」を喚起する、すぐれて国民主義的な運動であった。
 要するに、自由民権運動と明治政府は、近代国家の建設という基本的な目標を共有していたのであり、しかも、地租改正や自由主義経済などの基盤は、すでに政府が実現させていた。にもかかわらず、政府は国民の政治参加を拒否したから、民権派とは対立せざるをえなかったし、基本的な価値観と目標を共有したからこそ、両者はかえって激しく敵対しなければならなかったのだ。だとすれば、この時期の政治的対抗関係は、政府と民権派の二極対立ではなく、両者と異なる位相に立つ民衆を加えた三極関係としてとらえたほうがよいだろう。戊辰戦争期や西欧市民革命期の民衆の位置づけと同じである。
 同時に、民権派への共感を媒介にして、民衆のなかに「愛国心」や「天皇」が浸透したことも見逃せない。国家は人民と政府からなっており、国家と政府を同一視してはいけないと民権派は強調した。これは現在のわれわれも忘れてはならない視点だ。(『日本の歴史13 幕末から明治時代前期 文明国をめざして』 牧原憲夫 小学館 p.272~3)

 自由民権運動は、その「血なまぐさい」空気をたっぷり吸って発展してゆく。育ちざかりに吸った匂いは、その後の運動にまつわる一種の体臭ともなるだろう。
 ともあれ、西南戦争の折、高知立志社が岐路に立たされた三つの道、武力・言論・テロの、その第二の言論への道へ戦後の民権運動がすんなり移行したとは言えなかった。ひたむきに第三の道へつき進む者たちもいた。
 彼らの眼にもっとも大きく映ったのが、ワンマン大久保の頑固一徹、保守反動の巨影だった。(『日本の百年2 わき立つ民論』 松本三之介 ちくま学芸文庫 p.49)

(中島岳志) なぜ「愛国」という言葉で、板垣は自由民権運動を語ろうとしたのか。それは、彼にとって自由民権運動は、天皇のもとで「一君万民」を実現する愛国運動であり、万民の平等によって封建政治を打ち破ろうとするものだったからです。(『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』 中島岳志・島薗進 集英社新書0822 p.41)

本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-05-29 06:31 | 四国 | Comments(0)
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