入口にある「寺田寅彦先生邸址」という碑は、植物学者・牧野富太郎の揮毫です。彼も機構知見出身なのですね、寅彦とはどんな縁があるのでしょう。母屋の前にある庭には大きなアオギリが植えてありました。
解説があったので転記します。
「庭の追憶」の梧桐
このアオギリは「低気圧が来て風が激しくなりそうだと夜中でもかまわず父は合羽を着て下男と二人で、この石燈籠のわきにあった数本の大きな梧桐を細引きで縛り合わせた。それは木が揺れて石燈籠を倒すのを恐れたからである」と随筆「庭の追憶」(昭和九年「心境」に発表)の中に書かれたアオギリである。
「庭の追憶」は上野の国画展で藤田太郎(香我美町山北出身)の「秋庭」を見て書かれたもので、幼少のころ旧邸にあった槲(かしわ)の木や「大杯」という楓(かえで)などの庭木や飛び石などの回想から、いまは亡き父母や家族を追憶し「死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば世界じゅうの芸術の半分以上なくなるかもしれない」と書かれている。
寅彦先生はこの随筆を書いた翌年に亡くなっている。そのため先生が晩年の心境を述べられた「庭の追憶」にゆかりの木である。
そして母屋の中へ入り、それぞれの部屋や旅行カバンなど寅彦ゆかりの品々を拝見。部屋の片隅に置かれていた古いオルガンには、こういう解説がありました。
明治42年(1909)3月25日、30歳の寅彦は二年間のヨーロッパ留学へ赴くため東京を後にした。これに先立ち、小石川の家を引き払い、妻子は郷里・高知に帰郷させた。旅行鞄は漱石から借用。それと交換のように、一台のオルガンを預けた。
このオルガンが、高知県高知市の寺田寅彦記念館に今も残る。古びて黄ばんだ象牙づくりの鍵盤。焦げ茶色の木製ボディは、ずっしりとした厚み。でいながら、細部に生かされた優美な曲線や彫り込み細工は洗練の粋。
漱石の長女・筆子は、このオルガンで随分と演奏の腕前を上げたという。
わが敬愛する寺田寅彦の若き日々の息吹きにふれられた、至福のひと時でした。なお以前に熊本の夏目漱石邸を訪れたときに、寅彦が寄宿した
馬小屋を見学できたので、よろしければご笑覧ください。また、高知県立文学館の寺田寅彦展示室とかれのお墓は、最終日に訪れる予定です。
本日の五枚です。