仁淀川編(42):高知へ(15.8)

 本日は最終日です。朝食をたべていると宿のおばあさんが、実家の茶をくれました。ありがとうございます。会計は五泊六日でひとり65000円でした。思い出の縁として食堂や部屋や物干し台を記念撮影。
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 荷物をまとめて、親切だった宿の方々にお礼とお別れを言い、付近の風景を撮影してバス停「森」から町民バスに乗り込みました。あっ、妖気にあふれたマネキン親子にお別れを言うのを忘れた。
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 そして大崎で乗り換え、川口橋を撮影して、佐川駅行きのバスに乗りました。
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 そろそろ吾川郡仁淀川町とお別れかと思うと感無量です。そうそう、最近読んだ『移民たちの「満州」 満蒙開拓団の虚と実』(二松啓紀 平凡社新書782)に、こういうエピソードが書かれていました。これは忘れてはいけない歴史ですね。
 1944年3月には、吾川、幡多、安芸三郡の10ヵ町村から成る大土佐開拓団を編成し、高知県の満蒙開拓事業は結実していく。高知県出身の宮尾登美子の自伝的小説『朱夏』でも知られる開拓団であり、44年6月までに1682人が吉林省九台県に入植した後、11月14日の『高知新聞』に、満州視察から帰った県地方課事務官は「合計二百町歩を耕作し大開拓団としての威力を発揮し、その成果は全満の注視の的となっている」との談話を寄せた。
 さらに高知市が母体となった初月郷開拓団(1944年4月入植、163人)や高南開拓団(45年入植、143人)、吾川郡名野川村(現在の吾川郡仁淀川町)の名野川開拓団(45年3月、39人)などと戦争末期まで満蒙開拓団の送出は続いた。吾川郡池川町(現在の仁淀川町)では、町内の適正人口を1316戸6513人とし、44年から47年までの四年間、「不適正戸数」とした200戸800人を池川開拓団として満州へ送り出す分村計画を立て、先遣隊40戸が45年1月に出発したが、詳しい記録は残っていないとある。
 敗戦までに高知県が送出した満蒙開拓団は9151人、満蒙開拓青少年義勇軍は1331人、合計で全国10位、四国地方に限れば第一位だった。長野県大日向村に端を発した分村計画は波紋となって全国各地に行き渡り、時間差で高知県に達した「波」は、一段と高く強くなって現れた。(p.127~8)
 ったく。国益・国策のためには、弱者・少数者の犠牲はやむをえないという、日本という国家のお家芸ですね。この国の近現代史には、犠牲にされ、切り捨てられ、忘却の彼方に押しやられた死屍が累々としています。その国益とは強者(官僚・政治家・財界・軍部)の利益のことだと気づかずに、騙される方も悪いのですけれど。そして強者たちは、その犠牲を隠し、誤魔化し、忘れさせ、なかったことにしようとし、それをメディアが忖度し幇助する。だから同じようなことが何度でも繰り返される。水俣で、三里塚で、沖縄で、そして福島で。夏目漱石ではありませんが"日本国中どこを見渡したって、輝いてる断面は一寸四方もないじゃないか。悉く暗黒だ"と呻きたくなります。(『それから』より)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-08 07:08 | 四国 | Comments(0)
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