仁淀川編(48):高知龍馬空港(15.8)

 そしてタクシーで高知龍馬空港へ、結局タクシー代は7000円かかりました。空港の売店で、ずっと気になっていた「高知家」というTシャツを購入。いま調べてわかったのですが、"高知家"とは、高知県振興キャンペーンの名称で、「高知県はひとつの大家族やき」をキャッチフレーズとし、同県全体を「家」と見立てて観光客誘致を行なっているそうです。
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 「帰ろう!変えよう!高知県 林業 出る杭求む」という幟や。レストランのメニュー「おきゃくそうめん」やを撮影していると、「お遍路さん着替コーナー」がありました。さすがは四国ですね。また空港内の一画には吉田茂を紹介するコーナーがありました。
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 後学のために転記します。
名宰相・吉田茂とは-
 明治11年生まれの吉田茂は五回にわたって内閣総理大臣に任命された日本でただ一人の政治家である。
 優れた政治感覚と強いリーダーシップで「サンフランシスコ平和条約」を締結させ、戦後日本の礎を築いた。
 実父は、高知県宿毛市出身の実業家・政治家の竹内綱。
 三歳で東京にいる竹内の親友・吉田健三の養子となるが、後に選挙活動のため度々高知を訪れている。
 しかしながら吉田は地元へ利益誘導を図る政治家ではなく、「私は日本の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した話は有名である。それでも高知で当選し続けた吉田は、真に偉大な政治家として認められていたと言えるだろう。

 高知が彼を贔屓とする気持ちは分かりますし、"優れた政治感覚と強いリーダーシップ"という点にも異論はありませんが、"真に偉大な政治家"という点は留保したいと思います。『吉田茂とその時代』(中公文庫)の中で、ジョン・ダワー氏がこう述べられています。

 アメリカの冷戦戦略への同調は、広くさまざまな経済的機会と恩恵に門戸を開くことによって、日本に数えきれない経済利益をもたらしたが、しかし吉田自身の考え方からみても、日本の払った代償はかなり大きかった。日本は希望しない基地を受け入れ、最も近い最大の隣国から隔絶し、日本の当局者自身の多くが近視眼的で軍国主義的と認める世界的冷戦政策を支援することを強いられた。(下p.332)
 冷戦の終結によってアメリカは日本を経済的に優遇する必要がなくなり、収奪の対象と見るようになりました。アメリカが与えてくれる経済利益はなくなったにも関わらず、アメリカが望んでいる中国との隔絶、基地の受け入れ、そしてアメリカの軍国主義的世界政策への支援は続いています。これは吉田茂が残した大いなる負の遺産です。彼の功罪をきちんと検証し、清算すべきものは清算する時期に来ていると思います。
 そしてANA 568便に乗って出発、無事に帰郷することができました。

 後日談です。『しんぶん赤旗』(2018.5.31)を読んでいたら、「反戦詩人 槇村浩の町」という記事がありました。槇村浩という詩人の存在を寡聞にもはじめて知ったのですが、高知市生まれなのですね。高知・朝倉の陸軍歩兵第44連隊兵営内に「兵士よ敵をまちがえるな」という反戦ビラをまいたり、朝鮮人の不屈の抵抗を主題にした長編叙事詩「間島パルチザンの歌」を書いたりした詩人です。1932年に逮捕され3年余の獄中生活を送りますが、非転向を貫きます。しかし1936年に再検挙され、拘禁性躁鬱病などを発病して38年に病没されました。享年26歳。
 彼を顕彰する「平和資料館・草の家」や、城西公園内の詩碑が高知市内にあるとのこと。まだまだ知らないことがたくさんあるのですね、当たり前ですが。槇村浩、彼の名前を心に刻んで、高知を訪れる機会があったら、ぜひ訪れてみようと思います。
by sabasaba13 | 2018-10-20 06:13 | 四国 | Comments(0)
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