『乱世備忘』

『乱世備忘』_c0051620_214275.jpg 小熊英二氏が監督した映画『首相官邸の前で』上映後のトーク・ショーで、歴史・文化社会学者のCheung Yuk Man氏と学生運動にコミットしている香港在住の女子大学生・周庭(アグネス・チョウ)氏の話を聞いて以来、そして『香港 中国と向き合う自由都市』(倉田徹/Cheung Yuk Man 岩波新書1578)を読んで以来、香港における民主化運動に興味を抱いています。
 中でも前掲書での「雨傘運動」に関する叙述は圧巻でした。2014年、中国は、2017年に予定される香港初の政府トップ・行政長官の選挙において、北京と対立する民主派が出馬できなくなるような制度を決定しました。民主派と学生はこれに怒り、9月28日から12月15日までの79日間、香港中心部を占拠しました。催涙弾に雨傘を差して耐える市民の姿から、この運動は「雨傘運動」と称されます。占拠された地域の近くに住み、自らこの運動を体験したCheung氏が、占拠区の個人がそれぞれどうこの運動を作り上げたかを証言されています。例えば…
 2014年9月28日午後4時ごろ、学生たちを支援にきた市民が車道に溢れた。彼らは学生を包囲した警察の封鎖線を突破しようとしたため、警察による催涙ガスでの攻撃と、傘の防御陣との間での攻防戦が繰り返されていた。午後5時58分、一発目の催涙弾が発射された。市民はいったんは一斉に散ったが、一部はやがて方々から戻ってきた。暴徒と見なされると、警察の暴力に口実を与えるので、市民は手をあげて降参のポーズで、時に逃げたり、時に機動隊に立ちふさがったりして、平和主義を貫いた。大量の市民を全員逮捕することはできないし、報道カメラを前に市民に発砲もできない警察は、催涙弾を乱発するしかない。
 ゲリラ戦術といえば聞こえはいいが、香港人らしい弱虫戦術だ。一人ひとりの命と身の安全が大事、危険なら一時的に避ける。無駄な犠牲は要らないが、屈服しない。武装抵抗ではなく、野次馬根性で粘りぬいたことは、雨傘運動の長さと広がり、そして死者が出なかったことの理由のひとつだ。(p.173~4)
 "弱虫戦術"…いいですね。これなら私たちの闘いにも応用できそうです。この雨傘運動に加わった陳梓桓(チャン・ジーウン)監督が撮ったドキュメンタリー映画『乱世備忘 僕らの雨傘運動』が、ポレポレ東中野で上映されるとの耳よりな情報をキャッチ。さっそく山ノ神を誘って見にいってきました。
 まずは公式サイトから、雨傘運動のいきさつを転記します。
 1997年、中国に返還された香港は「特別行政区」となった。「香港特別行政区基本法」には将来、「普通選挙」で行政長官を選ぶ事ができるとされたが、2014年北京は、共産党が支持しない候補を選挙から排除する仕組みを導入する「8.31決定」を下し、民主主義的な普通選挙の道は閉ざされた。「8.31決定」の撤回、「真の普通選挙」の実施を求め、香港の金融街・中環(セントラル)を占拠する「オキュパイ・セントラル」が計画された。大学では授業ボイコットが行われ、黄之鋒(ジョシュア・ウォン)ら若者による組織「学民思潮」は、政府本庁舎前で抗議活動を開いた。催涙弾で鎮圧しようする警察に、数万人におよぶ学生、市民たちが雨傘で抵抗した事により「雨傘運動」と呼ばれるようになった。しかし成果を得ないまま占拠を続ける運動に対して徐々に市民からの反発も強まり、79日間に及ぶ「雨傘運動」は終了した。金鐘(アドミラルティ)に残ったバリケードには、「It's just the beginning /まだこれからだ」というメッセージが残されていた。
 その後、黄之鋒は「民主の女神」こと周庭(アグネス・チョウ)と共に、香港の自決権を掲げる政党「香港衆志(デモシスト)」を創設。2018年、周庭が立法会議員補欠選挙出馬の届け出を行うも認められず、香港の「高度な自治」が脅かされているとの懸念が高まっている。
 へえー、周庭(アグネス・チョウ)は「民主の女神」と呼ばれていたのですね。ま、それはさておき、当時27歳だった陳梓桓監督が、ハンディ・カメラを片手に民主化を求めるデモや集会の輪の中に入り、臨場感と熱気に溢れる映像を贈ってくれました。ただ自分たちの真の代表を選びたい、自分たちの未来は自分たちで決めたい、そうしたシンプルな思いに駆られて集まった若者たちを、カメラは優しくとらえていきます。彼が出会った大学生のレイチェル、ラッキー、仕事が終わってからデモに駆けつけてくる建築業のユウ、授業のあと1人でデモに来た中学生のレイチェル、みんな自然体でいい表情をしていました。テントを張り、雑魚寝をして、水を運び、掃除をし、勉強を教え合いながら闘うその姿は、まるでコミューンのようでした。話し合い、助け合い、悩み、笑いながら闘った79日間。若者たちが、自己決定権を求めて軽やかに闘うその姿には感銘を覚えました。敗れはしたものの、It's just the beginning、そう、闘いは始まったばかりです。

 そして日本の若者たちは、この闘いに連帯できるのか… 爺の繰り言ですが、ちょっと心許なく思えます。"若者にはスマホとコンビニを与えておけ"という、アドミニストレーターたちのせせら笑いが聞こえてきそう。前掲書によると、周庭(アグネス・チョウ)氏が、初来日後のフェイスブックに次のように書き込まれたそうです。
 日本はかなり完璧な民主政治の制度を持っているが、人々の政治参加の度合い、特に若者のそれはかなり低い。日本に来て、私は初めて本当の政治的無関心とは何かを知った。(p.223)
 デイヴィッド・イーストンの定義によると、政治とは、社会に対する価値の権威的配分です。大切なものをどう分けるかを考え、決めるのが政治。難しいことでも、恐いことでも、縁遠いことでもないのにね。これに無関心だということは、大切なものに与れなくても文句は言わないよということ。それでいいのか。頑張れ、日本の若者。

 追記です。ポスト雨傘運動の香港についての状況が、『週刊金曜日』(№1194 18.7.27)に掲載されていました。ふるまいよしこ氏の一文です。
 中国の政治支配に抗議すべく、2014年に香港で起きた雨傘運動。3年半経った今、天安門事件を契機に生まれた伝統的民主派と、ポスト雨傘の若者層の間に、深刻な亀裂が生じている。(p.42)

 運動の失敗、白紙の撤退、そして香港政府と香港警察による暴力的ともいえる強行排除。これらは、ポスト雨傘運動の香港社会に大きな亀裂を生んだ。
 運動中はまだ参加者たちは政府への不満を抱えながらも、香港政府にまだ一縷の信頼と期待を寄せていた。大量の市民が座り込むきっかけとなった催涙弾発射という前代未聞の対応も、その後占拠された路上付近をパトロールする警官たちに対する憎悪に変わることはなかった。
 だが、政府側との交渉はまったく進展せず、さらに強制排除に乗り出した警察の暴力、特にデモ参加者を引き抜いて暗闇に連れ込み、集団で殴る蹴るなどの様子を撮影した映像が公開されるやいなや、運動の失敗に対する失望感から市民の政府や警察の公正性への信頼感は完全に消滅。
 さらに亀裂は香港社会を細かく引き裂いた。
 運動失敗の挫折感はそのまま、香港の現体制に対する全面的な否定に変わった。そこから、「香港がなぜ今みたいになったのか」を彼らなりに探し求めた結果、冒頭のような認識(※中国政府に付け込むスキを与えたのは全部、民主党の責任だ)が共有されるようになってしまったのである。
 ポスト雨傘後に出現した若き民主活動家にとって、中国政府統治下の香港という図式や「一国二制度」という制度もすでにアンタッチャブルなボトムラインではなく、逆に「民主化によって拒絶できるもの」になった。
 そして香港返還前から香港の民主化を叫び続けてきた民主派(一般に「伝統的民主派」と呼ばれる)を「一国二制度という中国の統治を受け入れた、ニセの民主派」とまで呼ぶようになったのだ。
 だが、返還前の香港を見守り続けたわたしからすれば、当時の香港では全般的に「主権返還」と「一国二制度」は来るべき既存の事実であり、伝統的民主派にとってその枠の中でいかに市民が自治に関与できる民主的権利を手に入れるかが最大の課題だった。
 しかし、返還後に生まれた若者たちは「一国二制度を受け入れるかどうか」の選択権を持つはずだと主張。その結果、伝統的民主派は彼らにとって、「中国政府の統治に加担し、香港人の権利を売り渡した勢力」としてみなされるようになった。
 冒頭のような、歪められた自身の歴史を、伝統的民主派は当然否定している。だが、若くパワーと熱気あふれる若者たちの声にそれはかき消されてしまっているのだ。
 中国政府はきっと香港社会のそんな亀裂をほくそ笑んで眺めている。亀裂が深まれば深まるほど、香港社会は二度と団結などできなくなる。世界の耳目を集めた雨傘運動のような抗議活動はもう二度と起こり得なくなった。これからの香港は一体どうなっていくのだろうか。(p.43)

by sabasaba13 | 2018-10-22 06:29 | 映画 | Comments(0)
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