函館・札幌編(8):函館(15.9)

 見るべきほどのことは見つ、守衛さんに丁重にお礼を言って退出。「函館どつく前」行きの市電に乗って、「十字街」で降りました。キノコのような愛らしい市電操車塔もご健在、よかった。なおこの操車塔は1939(昭和14)年に建てられたもので、かつては始発から終電まで職員が詰め、ポイントや信号の切り替えに当たっていたそうです。1995(平成7)年にお役御免となったのですが、ここ十字街前に移設・形態保存した函館市の識見に敬意を表します。
 すぐ目の前にあったのが「北海道坂本龍馬記念館」ですが、龍馬と北海道はどういう関係にあるのでしょうか。今、記念館のホームページを閲覧したところ、彼はずっと北海道開発に意欲をもっていたのですが積年の志を果たせずに暗殺されてしまったとのことです。この記念館は、近代日本の礎を築き、北海道開拓を目指した坂本龍馬の生き方や精神、そして坂本龍馬が生きた幕末・維新の時代背景、また坂本龍馬の意志を継いで北海道に渡った子孫の人々の調査・研究を企図して開館されたそうです。ま、別に見なくていいかな。龍馬の顔はめ看板を撮影して、スルーしました。
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 このあたりには、函館独特の上下和洋折衷住宅が二棟ありました。「公式観光情報はこぶら」からのご教示ですが、一階が和風、二階が洋風に設計された木造二階建ての店舗・住宅が「上下和洋折衷(擬洋風)」様式です。日米和親条約(1854)によって開港された箱館(函館)ですが、土地が狭かったため、神戸や横浜とは違い、領事館・外国人住宅が市街地に雑居状態となりました。外国人と一緒に住むことになった函館の大工たちは、外国人の指導のもとで、まったく経験のない教会や領事館などの洋風建築に取り組みます。その後、宣教師や外国人商人の洋風住宅建築も依頼され、並々ならぬ苦労を重ねながら技術を習得しました。ところが、開港したとはいえ函館の輸出入額はわずかなもので、外国商人はより大きなマーケットを求めて横浜や神戸を目指し、函館を去り始めます。せっかく苦労して洋風建築技術を習得した函館の大工たちには、洋館を建てる機会が減少する一大事。そこで、当時財力があった海産商を中心に、店舗・住宅の建築に洋風の様式を取り入れることを強力に勧誘します。当時の函館商人は、諸外国と不利な商取引を強いられていました。長年の悲願である対等の取引を行うためにも、馴染んだ和風の生活様式を守りつつ、洋風を意識した店舗・住宅で対等な立場を強烈に誇示する必要があると考えられたのでしょう。その後、明治20年代後半から昭和初めまで、商店に限らず庶民の町家にも、洋風を取り入れた「上下和洋折衷住宅」が広まっていきます。特に1907(明治40)年、当時の全戸数の約半分の1万2千戸もが焼失する大火が起きますが、大火後の復興は目覚しく、和洋折衷住宅が函館の街並みを形成していきました。おしまい。なおこうした古い建物の解説板がぜひ欲しいもの、関係者諸氏の善処を期待します。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2018-11-15 06:23 | 北海道 | Comments(0)
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