そしてハリストス正教会を撮影してすこし歩くと、遺愛幼稚園に着きました。
下見板が端正な雰囲気を醸す清楚な
学舎です。ここが、昨日訪れた遺愛学院発祥の地なのですね。
解説を転記します。
明治28年(1895)遺愛女学校併置の遺愛幼稚園として創立されたが、明治40年(1907)の大火で遺愛女学校ともども類焼。現幼稚園園舎は米国篤志家の寄付により大正2年(1913)に建造された。この地は学校法人遺愛学院の発祥の地である。
米国人宣教師M.C.ハリスは米国メソジスト監督教会より派遣され明治7年(1874)1月26日函館に到着後、付近の子女を集め直ちに日日学校(Day School)を開いた。
これが遺愛学院の濫觴である。ハリスは当時の札幌農学校で、クラーク博士の依頼を受け、佐藤昌介・新渡戸稲造・内村鑑三らに洗礼を授けている。
幾何学的なブラケットを付加し、櫛形ペディメントを見せるポーチ部は、正面をガラス張りとし、両側二方を吹き放している。外壁をピンク色、隅柱・開口部などを白色に仕上げた控えめなスティックスタイルの建物である。
東本願寺函館別院の豪壮な屋根には圧倒されます。そうそう、最近読んだ『高木顕明の事績に学ぶ学習資料集』(真宗大谷派宗務所)の中で、東本願寺、浄土真宗大谷派について重要な記述がありました。心胆を寒からしめる国家犯罪、
大逆事件についてはずっとこだわり続けていますが、その犠牲者の一人、無期懲役を宣告されたのち秋田監獄で自死した
高木顕明(けんみょう)が真宗大谷派の僧侶だったのですね。戦争に反対し、被差別問題に取り組み、常に弱者・貧者の側に立っていた優れた人物でした。しかし大谷派は、彼を最も重い処分である擯斥(ひんせき)とし、敗戦後、この事件が明らかに冤罪であると判明してもその処分を解きませんでした。しかし、1996年に擯斥処分を取り消すとともに、己の非を認めて誠実に謝罪します。前掲書から引用します。
大谷派では、1996(平成8)年4月1日、時の宗務当局が国家に追随して行った師への無慈悲な行為と、それを今日まで放置してきた宗門の罪責を深く慚愧し、顕明師やご家族、門徒の方々へ心から謝罪を表明し、住職差免及び擯斥処分を取り消しました。(p.ⅱ)
"宗門の罪責を深く慚愧"、なかなか言える言葉ではないと思います。そして国家に追随したことにも反省の弁が及び、国家に対する批判的な視点を有していることにも注目します。
高木顕明の復権とは何なのかと本気に問題にしはじめると、そこには大きな壁が立ちはだかっていることに気づく。
最大の壁は国家である。
国は大逆事件が、国による弾圧事件であり冤罪であるといまだに認めていないからだ。
戦後、1961(昭和36)年、最後の大逆事件連座の生存者らが再審請求をしたが、東京高裁はこれを「棄却」した。特別抗告を受けた最高裁も、高裁決定を支持して「棄却」した。理由も示さずにである。だから依然として、法的には有罪とする判断が生き続けている。「大逆事件」は今なお生きているのだ。(p.32~3)
そう、一番深く慚愧して謝罪すべきなのは国家であるべきなのに、いまだに頬かむりをしています。そしてそうした国家の姿勢を批判せず、また無関心な多くの人びと。「廉恥」という言葉は死語になったようですね。