「国家と犠牲」

 「国家と犠牲」(高橋哲哉 NHKブックス1036)読了。「靖国問題」(ちくま新書532)の続編です。下記のような主張は一貫しています。
 国家による「犠牲」の論理は、戦死者の死を「祖国のために」の偉大な業績として讃えることによって、現在および将来の国民に、彼らを模範として「祖国のため」に「自己犠牲」の義務を果たすことを求めます。
 前半部では靖国問題に、自衛隊のイラク派兵やヒロシマ・ナガサキといった視点を加えてさらに分析を深めています。実は今年の三月に広島に行った時に、「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」という耳慣れぬ立派な施設が建っていたのを不審に思いました。この本でわかったのですが、「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」に基づき、2002年に広島、2003年に長崎にもつくられた施設なのですね。そして著者は、国家が原爆による死と残虐を「聖化」することによって、昭和天皇とアメリカ政府の責任が抹消されてしまう可能性を指摘しています。
 そして後半部では、戦没者顕彰装置が日本だけの特殊なものではなく、軍隊を保有して戦争に備えているあらゆる国家に一般的に備わっていることを分析したものです。特にヨーロッパにおける「犠牲」の論理を、「創世記」におけるイサク奉献の物語、ギリシア・ローマ、中世、そしてフィヒテとルナンの言説を概観しながら、それがヨーロッパの歴史において一時的な断絶はあるものの、連綿として受け継がれ、そして第一次世界大戦後にその頂点に達したとしています。キリスト教思想における天上の国のための殉教という論理が、地上の国のための殉国という論理へと移行したという説は納得。近代日本には前者が存在しなかったため、教育によって人工的に後者を作らざるを得なかったのですね。
 そして著者は、犠牲なき国家、犠牲なき社会、そして軍なき社会、武装なき社会、これらを実現することがいかに困難であるかを認めながらも、それでは私たちに犠牲を要求し、それを正当化し、聖化・聖別さえする国家に対して、批判を断念しなければならないのかと問いかけます。否。
 あらゆる犠牲の廃棄は不可能であるが、この不可能なものへの欲望なしには責任ある決定はありえない。
 もちろんすっきりとした結語ではありません。しかし寺山修司が「偉大な思想などにはならなくともいいから、偉大な質問になりたい」と言っているように、この問いかけは重要です。いろいろなことを考えさせられています。個人の死を、国家による顕彰/不顕彰からどうやって守ったらいいのか。宗教による「犠牲」の顕彰をどう考えるのか。そして最も考え込まされているのが、ジャック・デリダ「死を与える」からの引用部分です。長文ですが、孫引きします。
 その文明社会が創設し支配している市場の構造と諸法則のゆえに、対外債務のメカニズムとそれに似た他の多くの非対称関係ゆえに、同じその“社会”は数億人もの子どもたちを飢餓や病気で死亡させる、あるいは(中略)死亡するにまかせている。それなのに、道徳上・法律上のいかなる法廷もこの犠牲―自己自身を犠牲にしないための他者の犠牲―について審判できない、という事実によって、このような社会は、計り知れない犠牲に与っているのみならず、こうした犠牲を組織している。その経済的、政治的、法的な秩序が順調に機能し、その道徳的言説と良心が順調に機能することの前提には、この犠牲の恒常的な実行があるのだ。
 そうですよね、今私が最も知りたいのがそのメカニズムとそれに対する対処法です。他者を犠牲にしなければ機能しない経済的・政治的・法的システム。極端な例で言えば、東南アジアの人々を犠牲にして安いエビをたらふく食べ、そのシステムを守るために日本の人々を犠牲にし、その死を顕彰することによってさらなる「自己犠牲」を求めていく。さすがに日本においては事態はそこまで(たぶん)至ってはいないと思います。しかし世界の現状を見ると、もう日常的な事態です。いわゆる「テロリズム」の温床の一つはここにあると思うのですが。
 未完成ではあるが、とにかく刺激的な本です。一読の価値あり。
by sabasaba13 | 2005-11-06 09:12 | | Comments(0)
<< 京都錦秋編(1):高台寺・知恩... 「水と原生林のはざまで」 >>