劇団民藝が、永井荷風を主人公とした『新・正午浅草 荷風小伝』(作・演出=吉永仁郎)という劇を上演するとの情報を得ました。荷風ファンの末席を汚す一人として、これは見逃せません。おまけに今年は荷風生誕140年にして没後60年です。山ノ神を誘いましたが所用のために無理とのこと、独りで出かけることにしました。劇場は「紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA」、新宿タカシマヤ・タイムズスクエア南館の七階にあります。初日のため、かなり客席はうまっており何となく華やかな雰囲気でした。まずは公式サイトより、あらすじを引用します。昭和32年秋の昼下がり、市川市八幡。独りで暮らす77歳の荷風が、書斎にもち込んだ七輪に木片をくべて、野菜入りの自称釜飯をつくっている。そこへかつての愛妾お歌が久しぶりに訪ねてくる。お歌はわびしさに驚くが、荷風は2千万円の預金通帳を入れたカバンを置き忘れたことも面白おかしく語ってみせる。思わずお歌の視線はカバンへ。思い出話はやがて40年書きついだ日記へと移り、名作「?東綺譚」の娼婦お雪との日々がよみがえる…。何といっても、永井荷風(本名は壮吉)役を演じた水谷貞雄の見事な演技に脱帽です。頑固で、へそまがりで、女好きで、狷介で、辛辣で、でも優しそうでどこか憎めない荷風の風貌がよく伝わってきました。最後のほうになると、まるで荷風がよみがえって眼前にいるような気すらしてきました。 冒頭で、荷風が“まつざきこうどう”の本を読みながら、老人が若い娘と寝るのは良いが子どもをつくってはいかんと独り言をつぶやく場面がありました。今にして思うと、「家庭を持たずに自由に生きる」という荷風の生き様を象徴した言葉なのですね。なお“まつざきこうどう”という方はどこかで聞いた覚えがあります。今調べたところ、松崎慊堂という江戸時代後期の儒学者で、渡辺崋山の師匠だった方でした。 猫と遊びながら“釜飯”と自称する怪しげな料理をつくっているところに、かつての愛妾お歌が訪ねてきます。そして彼の日記『断腸亭日乗』を見つけ、荷風に読んでもらうところから劇は展開していきます。日記に出てくるエピソードの場面と、今現在の荷風の部屋との往復、よくできた脚本です。息子に社会的な地位と名誉を期待する厳格な父・久一郎(伊藤孝雄)と、それをかわしながら自由に生きようとする飄々とした荷風、この親子のやりとりが面白いですね。でも父に勧められた結婚を断れず、また尊敬する恩師・森?外に頼まれた慶応義塾大学教授の職を引き受けるなど、義理堅い一面もあります。とは言っても、父が亡くなるとすぐに離婚し、?外が亡くなるとすぐに職を辞してしまうのが荷風です。 軍靴の音が鳴り響く時代になると、荷風は軍国主義を忌み嫌い、不服従・非協力の姿勢を貫きます。『断腸亭日乗』に下記の一文があるように。 軍部の横暴なる今更憤慨するも愚の至りなればそのまま捨置くより外に道なし。われらは唯その復讐として日本の国家に対して冷淡無関心なる態度を取ることなり。(1945.5.5)劇では友人と共に馴染の静かなカフェを訪れて、持参したドビュッシーのレコードをかけてもらう場面がありました。彼は、フランスでドビュッシーの生演奏を聴いたことがあるのですね、羨ましい。なお現在からこの場面に転換するときに流れた曲は、ピアノ曲「夢」でした。そこに居合わせたのが菊池寛、国策に協力する彼を荷風は嫌い店から立ち去ります。 そして日記は、玉ノ井で出会った娼婦お雪のことに触れますが、そう、『?東綺譚』のモデルとなった女性ですね。荷風に恋心を抱き結婚を申し込むお雪、自由に生きるために優しく断る荷風、そして傷心を押し隠して健気に明るく振る舞うお雪。しっとりとした良い場面でした。苦界にありながらも懸命に生きようとするお雪を、飯野遠が見事に演じていました。 ふたたび現在へ、お歌は借金を申し入れますが、荷風にやんわりと断られて立ち去ってしまいます。自由と孤独のなか、誰にも看取られずに死んでしまう荷風… なお題名の「正午浅草」は、晩年の『断腸亭日乗』がほぼ毎日この一文のみ記されていることからつけられました。浅草にある「アリゾナ」でいつも昼食をとっていたのですね。空襲の際も、この日記だけは持ち出した荷風。たとえ四文字とはいえ、その日にしたこと/あったことを日記に書き残すことが、彼にとって生きる証だったのかもしれません。 老境を迎えつつある私としては、いろいろと考えさせられたお芝居でした。演出家のピーター・ブルックに「演劇とは、自分と他人とが違うということを確認していく作業です」という言葉あるそうですが、荷風とは違う自分なりの老い方に思いを馳せるよいきっかけとなりました。 なおあえて注文をつければ、国家や社会に対する痛烈な批判者であった面をもっと取り上げてほしかったと思います。荷風の視線は、今だからこそ必要ではないのかな。『断腸亭日乗』からいくつか紹介します。 日本人は何事に限らず少しく目新しきものの盛になり行くを見れば忽恐怖の念を抱く。島国根性今以て失せやらぬものと見えたり。今日の時勢を見るに女給踊子の害の如きはたとへこれありとなすも恐るるに足らず。恐るべきは政治家の廉恥心なきことなり。社会公益の事に名を托して私欲を逞しくする偽善の行動最恐るべし。(1929.9.19)壮吉さん、その行末が今なのですが、何てことはない、政治がさらに低劣で滑稽なものになり、即位と改元に沸き立つ国民はさらに柔順になっただけです。 余談です。倉科遼の原作、ケン月影の作画による『荷風になりたい 不良老人指南』(小学館)という漫画があります。ケン月影が描く女性がみな同じ顔であることに辟易しますが、荷風の生涯を要領よくまとめています。
by sabasaba13
| 2019-05-16 06:15
| 演劇・落語
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自己紹介
東京在住。旅行と本と音楽とテニスと古い学校と灯台と近代化遺産と棚田と鯖と猫と火の見櫓と巨木を愛す。俳号は邪想庵。
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