姫路・大阪・京都編(11):大山崎山荘美術館(15.12)

 それでは大山崎山荘美術館へと参りましょう。踏切を渡ると天王山登り口、そう、山崎の戦い(1582)で豊臣秀吉が占有して明智光秀を破った山ですね。ここには「山崎宗鑑冷泉庵跡」という碑もあります。
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 後学のために解説を転記しておきます。
 宗鑑は本名を範重といい、寛正六年(1465)滋賀県栗太郡常盤村志那で生まれた。彼の家は支那地区を支配した支那氏で足利将軍義尚に一族で仕えていた。しかし将軍義尚が佐々木高頼との合戦に破れたため世の無常を感じて剃髪し、入道となり生地を離れて大山崎に隠棲したのである。ここに山崎宗鑑が誕生する。
 彼は八幡宮社頭で月例会として開かれていた連歌会の指導や、冷泉庵での講を主催する一方、世に知られた『犬筑波集』を生み出した。また書も宗鑑流として多くの人々から珍重された。碑文の"うつききてねぶとに鳴や郭公"は掛詞を巧みに使い、その手法は後の俳諧の基礎となった。
 「上の客立ち帰り、中の客其の日帰り、下々の客泊りがけ」と書いた額を庵に掛けていたという風狂の俳人でもあります。

 右に曲がって緩やかな坂道を歩いていくと、カエデがきれいに色づいていました。これは期待できそう、楽しみです。
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 そして数分歩くとアサヒビール大山崎山荘美術館に着きました。公式サイトから、その由緒について引用します。
 アサヒビール大山崎山荘美術館は、京都府大山崎町、天王山の南麓にあります。約5500坪の庭園のなか、英国風山荘である本館と安藤忠雄設計の「地中の宝石箱」、「夢の箱」、その他の建物から構成されています。
 美術館本館である「大山崎山荘」は、もとは関西の実業家・加賀正太郎(1888-1954)の別荘として、大正から昭和にかけ建設されました。
 加賀正太郎は、証券業をはじめ多方面で活躍した実業家である一方、大山崎山荘で蘭の栽培を手がけ、植物図譜《蘭花譜》を刊行するなど、趣味人としても大きな業績を遺しました。加賀は、ニッカウヰスキーの創業にも参画し、晩年には同社の株を深い親交があった朝日麦酒株式会社(現アサヒビール株式会社)初代社長・山本爲三郎に託しました。この縁が、現在の美術館へと受け継がれていきます。
 ビールとウイスキーという新たな文化をわが国にもたらした二人が紡いだ時代の糸は、やがて桂川、宇治川、木津川、三つの川が合流するこの大山崎の地でひとつになります。
 1954年に加賀正太郎が亡くなり、ついで加賀夫人がこの世を去ると、1967年に大山崎山荘は加賀家の手を離れることになりました。
 幾度かの転売ののち、建物の老朽化が進んだこともあり、1989年には山荘をとり壊し、大規模マンションを建設する計画が浮上しました。しかし、地元有志の方を中心に保存運動が展開され、京都府や大山崎町から要請を受けたアサヒビール株式会社が、行政と連携をとりながら、山荘を復元し美術館として公開することになります。
 アサヒビール大山崎山荘美術館は、歴史ゆたかな土地に建つ貴重な近代建築と、同時代の先端を行った芸術運動の遺産、そして国際的に活躍する建築家・安藤忠雄が手がけた現代建築の三つを擁して、1996年に開館しました。2004年には、「大山崎山荘」の6つの建物、霽景楼(せいけいろう)[現本館]、彩月庵(さいげつあん)[茶室]、橡ノ木(とちのき)茶屋、栖霞楼(せいかろう)[物見塔]、旧車庫[現レストハウス]、琅かん洞(ろうかんどう)[庭園入口トンネル]が国の有形文化財として登録されました。開館9年を迎えた2005年には来館者が100万人を越え、特色あるコレクションと建築、豊かな自然をともに楽しむことのできる美術館として、多くの人に親しまれています。

by sabasaba13 | 2019-06-14 06:27 | 京都 | Comments(0)
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