福井・富山編(17):福井(16.3)

 なお左内公園には、「芭蕉宿泊地洞哉(とうさい)宅跡」という記念碑もありました。後学のため解説を転記します。
 松尾芭蕉が、「おくの細道」の旅の途中、福井の俳人洞哉を訪れたのは、元禄2年8月11日(1689年:陽暦9月24日)のことだといわれます。
 この洞哉という人がどのような人物であったかはあまり知られていません。芭蕉の死後約100年後の寛政4年(1792)、福井の俳人達が百回忌の法会を営みました。その時の記録の中に、「洞哉という人は、貧しい暮らしをしており、芭蕉が訪れたときも枕がなく、幸い近くの寺院でお堂を建てていたので、ころあいの良い木片をもらってきて芭蕉の枕とした。」(祐阿 『道の恩』 寛政4年)という話があります。
 このような人柄が、芭蕉に気に入られたのか、芭蕉は洞哉の家に2泊したのち連れ立って敦賀へと向かいます。
 参考のために、当該部分を『奥の細道 朗読』から引用させていただきます。
【原文】 福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそかれの路たどゝし。爰に等栽(とうさい)と云古き隠士有。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋。遙十とせ余り也。いかに老さらぼひて有にや、将死けるにやと人に尋侍れば、いまだ存命して、そこゝと教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に、夕貌・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木ヾに戸ぼそをかくす。さては、此うちにこそと門を扣ば、侘しげなる女の出て、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは此あたり何がしと云ものゝ方に行ぬ。もし用あらば尋給へ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽も共に送らんと、裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立。

【現代語訳】 福井までは三里ほどなので、夕飯をすませてから出たところ、夕暮れの道なので思うように進めなかった。この地には等裁という旧知の俳人がいる。いつの年だったか、江戸に来て私を訪ねてくれた。もう十年ほど昔のことだ。どれだけ年取ってるだろうか、もしかしたら亡くなっているかもしれぬと人に尋ねると、いまだ存命で、けっこう元気だと教えてくれた。町中のちょっと引っ込んだ所にみすぼらしい小家があり、夕顔・へちまがはえかかって、鶏頭・ははきぎで扉が隠れている。「さてはこの家だな」と門を叩けば、みすぼらしいなりの女が出てきて、「どこからいらっしゃった仏道修行のお坊様ですか。主人はこのあたり某というものの所に行っています。もし用があればそちらをお訪ねください」と言う。等裁の妻に違いない。昔物語の中にこんな風情ある場面があったなあと思いつつ、すぐにそちらを訪ねていくと等裁に会えた。等裁の家に二晩泊まって、名月で知られる敦賀の港へ旅たった。等裁が見送りに来てくれた。裾をおどけた感じにまくり上げて、楽しそうに道案内に立ってくれた。
 また『おくの細道』の旅程を描いた地図と解説があったので、転記しておきます。
おくの細道の旅

 松尾芭蕉は元禄2年(1689)の3月27日、曾良を連れ立って東北、北陸を巡る旅に出ました。この旅は、同年8月21日、大垣(岐阜県)に到着して終わりますが、これが有名な『おくの細道』の旅です。
 芭蕉が北陸越後(新潟県)に入ったのは7月初めで、一ヶ月後の8月10日頃に加賀大聖寺を経て越前(福井県)に入りました。松岡で一泊したのち福井の洞哉を尋ね、ここで二泊して敦賀へ向かいます。越前の数日かけて旅したことになります。
 越前での句は『おくの細道』で五句よまれています。

松岡
物書きて扇引きさく余波(なごり)哉

敦賀
月清し遊行のもてる砂の上
名月や北国日和定めなき

いろの浜
寂しさや須磨にかちたる濱の秋
波の間や小貝にまじる萩の塵

 これらの句の他にも、芭蕉がこの旅でよんだ句が知られています。そうした句からは、芭蕉が西行を代表とする古典によまれた名所に引かれて行脚をしていたことが伺えます。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-01 08:02 | 中部 | Comments(0)
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