福井・富山編(38):藤野厳九郎記念館(16.3)

 魯迅の親友であった内山完造が、藤野厳九郎に送った手紙も展示してありました。解説文を転記します。
 内山書店店主 内山完造(1885‐1959) 魯迅の崇拝者であると共に親しい友人であった。岡山県に生れた内山完造は、大阪と京都で徒弟奉公をした後、目薬の販売員として大正4年(1915)上海市北四川路に一家を構え、これが発展して内山書店となった。魯迅は1927年広州を去って上海に移ったが、まもなく内山書店を訪れるようになり、書店の客としてのみではなく、死去に至るまで内山完造と親しい交友を続けた。そのため、魯迅死去に際して、内山完造は日本人としてただ一人、葬儀委員に選ばれた。
 この手紙は、魯迅死去8年後に中国紙に載った、魯迅の日本留学時代についての記事の切り抜きを藤野厳九郎に送ったものである。記事の内容中、藤野厳九郎に関する部分は、小田嶽夫の『魯迅伝』(昭和16年(1941)筑摩書房)の記載によっている。
 戦後日本に引き揚げた内山完造は、日中友好に尽くしたが、昭和34年(1959)友人たちのすすめで病気療養のために中国へ渡り、北京で客死した。
 内山完造、記憶にとどめたい人物です。以前に『伝説の日中文化サロン 上海・内山書店』(太田尚樹 平凡社新書436)の書評でも書きましたが、内山書店が営まれていた1917年から1945年といえば、二十一か条要求、五・四運動、第一次国共合作とその破綻、北伐、満州事変と第一次上海事変、そして日中戦争と第二次上海事変など、激動の時代です。その中で内山完造は魯迅や郭沫若たちとの友情を育み、そして身を挺して国民党の弾圧から彼らを護りました。「友人を敵に売り渡さない人間は、日本人の中にだっていますよ」とは彼の言です。特に中国の独立を求めて闘い続けた魯迅にとって、情報の発信と入手、さまざまな援助、隠れ家の提供など内山完造の存在がいかに大きなものであったか。著者の太田氏は「親友であると同時に確固たる兵站部」と表現されています。
 その彼が、藤野厳九郎にこうした手紙を送っていたことをはじめて知りました。二人は知友だったのか、あるいは故魯迅の意を汲んだのかはわかりませんが、これも中日のひとつの架け橋ですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-22 07:38 | 中部 | Comments(0)
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