福井・富山編(39):藤野厳九郎記念館(16.3)

 日露戦争幻灯タネ板(複製)は、1965年に東北大学医学部細菌学教室で発見されたものです。魯迅を大きく変えたあの幻灯は、この中の一枚だったのでしょうか。『藤野先生』にはこうあります。
 第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになっていた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦って勝っている場面ばかりであった。ところが、ひょっこり、中国人がそのなかにまじって現れた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺される場面であった。取囲んで見物している群集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。
 「万歳!」 彼らは、みな手を拍って歓声をあげた。
 この歓声は、いつも一枚映すたびにあがったものだったが、私にとっては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。その後、中国へ帰ってからも、犯人の銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまって、酒に酔ったように喝采する-ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変わったのだ。
 第二学年の終りに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだように見えた。何か言いたそうだったが、ついに何も言い出さなかった。(p.249)
 なお『魯迅選集 第一巻』(岩波書店)所収の「吶喊」自序で、この変化について魯迅はもう少し詳しく語っています。
 あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切なことではない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないのか。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。されば、われわれの最初になすべきこと任務は、彼らの精神を改造するにある。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。(p.9)

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-23 06:18 | 中部 | Comments(0)
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