言葉の花綵199

 労働階級諸君、歴史は自然との闘争である。窮乏、無知、貧困、無力、および人類が歴史の始めに登場したときの我々の状態であった、あらゆる種類の不自由との闘争である。この無力の克服の進行、これが歴史の示すところの自由の発展である。(ラッサ―ル)

 一人を殺せば、不義の行為として、必ず死罪にされる。この論法でゆくと、十人を殺すものは、十不義を重ねたのであり、十倍の死罪にしなければならず、百人を殺すものは、百不義を重ねたのであり、百倍の死罪にしなければならない。ここまでは天下の君子の誰もがわきまえている。しかし、大きく不義を犯してひとの国を攻めると、非難しないで、名誉とし、正義とする。それが不義であることを全然ご存じない。それ故に私はこの書物を書いて後の者に残す。天下の君子は、義と不義の乱れを見わけなければならないのである。(墨子)

 一世紀にわたる政治教育のおくれは、十年でとりかえせるものではない。(マックス・ウェーバー)

 人権の無視と軽侮とは、人類の良心をふみにじる野蛮行為を生じさせる。(世界人権宣言前文)

 一口にいえば、私は経験によって、この世にあるどんないいものでも、われわれがそれを使える範囲でしか、われわれにとって価値がないことを知った。(デフォー 『ロビンソン漂流記』)

 そして私は誓うのだった。私の一切の力をもってこの憎むべき元凶と、戦争と、戦うことを、それを準備しそれで生活している者どもと戦うことを、戦争の永遠のギセイ者である人民を防衛することを! (トレーズ)

 思想というものはいつになっても、ドグマにも党派にも感情にも利害にも先入見にも、どんなものにも、それが事実そのものでないなら盲従してはならない。思想にとっては、盲従することはもはや思想でなくなることだからである。(ポアンカレー)

 貧乏人があまり貧乏になりすき、金持があまり金持になりすぎると、貧乏にはどうすれがいいかをしっている。(パール・バック 『大地』)

 ひとり徒歩で旅したときほど、ゆたかに考え、ゆたかに存在し、ゆたかに生き、あえていうならば、ゆたかに私自身であったことはない。徒歩は私の思想を活気づけ、生き生きさせる何ものかをもっている。じっと止まっていると、私はほとんどものが考えられない。私の精神を動かすためには、私の肉体は動いていなければならないのだ。田園の眺め、快い景色の連続、大気、旺盛な食欲、歩いてえられるすぐれた健康、田舎の料亭の自由さ、私の隷属を思い起させる一切のものから遠ざかることが、私の魂を解放し、思想に一そうの大胆さをあたえる。(ジャン・ジャック・ルソー 『告白』)

 少数者がきわめて富み、多数者がきわめて貧しいために、人びとの心がたえず自分の富もしくは貧困を考えざるをえないような社会は、じつは戦争状態にある社会である。その戦争が公然と行われているか、もしくはひそかに行われているかは問題にならない。…こうした社会は、その内部におけるさまざまの緊張状態のために安定をうばいさられることとなるから、自由な社会ではありえない。したがって、こうした社会は恐怖にみち、理性をもって事に処する力が保証されるような雰囲気がなくなってしまう。(ハロルド・J・ラスキ)
by sabasaba13 | 2019-12-15 08:36 | 言葉の花綵 | Comments(0)
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