山に見守られるように道の両側に二階建ての民家が建ち並び、宿場の面影を残す落ち着いた感じの街並みです。
火の見櫓がいいアクセントになっています。「和泉屋」という古い看板を掲げたお宅は、かつて旅籠だったのですね。

重厚な土蔵をつなげた長屋門が印象的な北村邸は、大正中頃から1939(昭和14)年頃まで
郵便局だったそうです。解説を転記します。
松代から福島宿への宿場町として栄えていた川田宿の地主。二つの土蔵を連結した長屋門は明治中期に建てられたものである。母屋は小布施の酒屋を移築したものといわれ、殆ど釘は使われていない。土塗り壁と黒く塗られた下見板、腰板、外壁の二つの土蔵を連結した長屋門が道路に面している。長屋門西側の土蔵の二階には土蔵扉があり、その直下には、大正時代の郵便局舎として使われていた頃の「むくり屋根」が残されている。平成20年(2008)「長野市景観重要建造物」に指定された。
その近くには「史跡 御高札場」があり、三枚の高札が掲げられていました。解説を転記します。
松代藩は高札場を設け、領民に守るべき掟、御条目、禁令を高札に掲げ周知徹底を図った。高札には「定」の永世不易の法と「覚」の一時的な法を掲げた。川田宿御高札場は昭和37年(1962)に、慶応4年(1868)太政官布告の太政官札3枚が発見された際に復元建立された。平成2年から風食を防ぐためにレプリカを掲示している。上段に「覚」外国人迫害禁止令。下段右に「覚」阿片煙草禁止令。下段左に「定」徒党禁止令の札が掲げられている。
徒党、今で言えば集会やデモでしょうか。日本の権力者は、今も昔も、民衆の示威行動を恐れ嫌うのですね。その近くには「川田宿へようこそ 心静め心配ごとなくして、ごゆっくり散策して下さい」という看板がありました。恒産あれば恒心あり、憂いなく心静かに街歩きを楽しむためには、格差社会を解消してすべての人びとが安心して暮らしていけるようにしなければなりません。さきほどの御仁の顔が脳裡をかすめました。
本日の三枚です。