「漱石日記」

c0051620_194013.jpg 「漱石日記」(夏目漱石 岩波文庫)読了。「ベルツの日記」の次の厠上本(便所で読む本)でした、漱石先生御免なさい。彼は日常的には日記はつけず、旅や留学の最中に日記を残していたのですね。「ロンドン留学日記」「『それから』日記」「満韓紀行日記」「修善寺大患日記」「明治の終焉日記」「大正三年家庭日記」「大正五年最終日記」から編集されています。
 留学日記では、欧米の文明に対する劣等感と、それに飲み込まれまいとする矜持が綯い交ぜとなった記述が興味深いですね。漱石の苦悩と呻吟がよく窺われます。ロンドンの悪天候に関する論及も多いので、よほどこたえたのでしょう、ノイローゼになるのも得心します。
 日本は三十年前に覚めたりという。しかれども半鐘の声で急に飛び起きたるなり。その覚めたるは本当の覚めたるにあらず。狼狽しつつあるなり。ただ西洋から吸収するに急にして消化するに暇なきなり。文学も政治も商業も皆然らん。日本は真に醒ねばだめだ。(1901.3.16)

 当地のものは天気を気にかけない。禽獣に近い。(1901.2.13)

 彼らは人に席を譲る。本邦人の如く我儘ならず。彼らは己の権利を主張す。本邦人の如く面倒くさがらず。彼らは英国を自慢す。本邦人の日本を自慢するが如し。いずれが自慢する価値ありや試みに思え。(1901.1.3)

 英国人なればとて文学上の智識において必ずしも我より上なりと思うなかれ。彼らの大部分は家業に忙しくて文学などを繙く余裕はなきなり。(1901.1.12)
 「修善寺大患日記」は少々期待はずれでした。もっと壮絶な独白が読めると思ったのですが… 「生き返るわれ嬉しさよ菊の秋」という一句は心に残ります。「家庭日記」における鏡子夫人への痛罵と嫌悪は凄まじい。これについては漱石の病的な妄想と夫人は述懐しており、次男伸六もそれを支持しています。もはや真相は藪の中か。
c0051620_19401855.jpg 気になる点が二つあります。行啓能に来ていた皇后・皇太子が、一般観衆は禁煙なのに平然と喫煙していることを批判し、そして従者がその煙管に煙草をつめたり火をつけているのを見て、漱石は「死人か片輪にあらざればこんな事を人に頼むものあるべからず」と憤慨しています。(1912.6.10) その文の右に小さく「原」と字がふってあります。明らかな誤字の場合に「原文のまま」という意味でつけられている記号ですが、このケースでは皇族への不敬な表現の責任を漱石に帰すためでしょう。皇室に関するタブーが生きている証左ですね、いいかげん削除すればいいのに。このすぐ後に漱石は「言葉さえぞんざいならすぐ不敬事件に問うたところで本当の不敬罪人はどうする考にや」と言っていますよ。
 もう一つ。この日記で大逆事件に対する言及がないことです。幸徳秋水の逮捕が1910年6月10日、漱石が修善寺に来たのが同年8月6日、菊屋で大量に吐血したのが8月24日、日記を再び書き始めたのが9月8日、事件関係者の死刑執行が翌年1月24~25日。ほぼ同時進行しており、漱石が知らなかったはずはありません。周知のように、天皇制を否定し無政府主義を信奉しただけで国家権力に殺された幸徳秋水や大石誠之助たち。明治憲法下において、思想・表現の自由が抹殺された重要な事件です。当然、文学者たちも(立場により違いはありますが)さまざまな反応をしています。森鴎外、石川啄木、徳富蘆花、永井荷風… しかし漱石は何も言っていない。大いなる謎です。

 漱石のいろいろな顔を知ることができました。それにしても他人の日記を読むって面白いですね。フフフフ 今は便所で啄木の「ローマ字日記」を読んでいます。なお以下の一節は銘肝します。
 未来は如何あるべきか。自ら得意になる勿れ。自ら棄る勿れ。黙々として牛の如くせよ。孜々として鶏の如くせよ。内を虚にして大呼する勿れ。真面目に考えよ。誠実に語れ。摯実に行え。汝の現今に播く種は、やがて汝の収むべき未来となって現わるべし。(1901.3.21)
 本日の二枚は、漱石が滞在したロンドンの下宿と、修善寺の菊屋旅館です。
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by sabasaba13 | 2005-11-27 19:42 | | Comments(0)
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