炎の人

炎の人_c0051620_21534621.jpg フィンセント・ファン・ゴッホ… その名を聴くと微かに胸が震えます。大胆な色使い、命が宿っているかのようにうねる線と盛り上がるマチエール、彼が描いた絵の魅力もさることながら、その複雑な性格と波乱にとんだ悲劇的な人生を知ると立ち竦む思いです。闘い、逃避し、詰め寄り、縋り、挑み、錯乱し、自ら命を断ったゴッホ。人間的な、あまりにも人間的な画家ですね。
 1999年に山ノ神とオランダ・ベルギー旅行をしたときに、クレラー・ミュラー美術館とゴッホ美術館を訪れて、浴びるように彼の絵を観ることができたのは忘れられない大切な思い出です。
 また2001年に行ったドイツ旅行では、パリに立寄ってオルセー美術館を堪能し、バス・ツァーでオーヴェールとジベルニーを訪れてゴッホに所縁のある場所を訪れました。
 そのゴッホの生涯を描いた文化座公演「炎の人」を、山ノ神の誘いにのって観劇してきました。なお彼女は、滝沢修主演・演出の劇団民藝による伝説の舞台を、小学生のときに父親に連れられて観たことがあるそうです。宇野重吉の語りに涙が止まらなかったと思い出話をしてくれました。嗚呼、我が家との何たる文化資本の違い!

 昨年の4月に練馬文化センターで行なわれる予定でしたがコロナ禍のために延期。同センターが改修工事に入ったため練馬区光が丘IMAホールでの観劇となりました。ここには初めてきますが、客席が小規模で舞台が近く、役者の声がよく通り、劇を観るには格好のホールでした。(3Fに喫煙所もあるし) 何といっても、客席前後のスペースが広いのが良いですね。移動が楽だし脚も伸ばせます。

 脚本は三好十郎、演出は鵜山仁、文化座の公式サイトから、あらすじを転記します。

 ベルギーの貧しい炭鉱町で、福音伝道者として坑夫たちと生活を共にしていたヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(藤原章寛)だったが、坑夫たちのストライキに加担したとして伝道協会の派遣牧師から職を解かれてしまう。職を失い画家になる決心を固めたゴッホは、オランダの主都ハーグに移り、モデル女で娼婦のシィヌ(小川沙織)と出会い同棲を始めたが、絵の師でもあるモーヴ(沖永正志)はその結婚に反対し絶縁を宣告。シィヌにも去られてしまったゴッホを慰めるのは唯一の理解者であった弟のテオ(岡田頼明)だけだった。
 画商に勤めるテオの口添えでパリに移り住んだゴッホは、印象派の若き画家たち、ロートレック(津田二朗)、ベルナール(桑原泰)、シニャック(佐藤哲也)らとタンギイ(青木和宣)の店で交際を深め、中でもゴーガン(白幡大介)に深い尊敬と憧れを抱いた。これまでにない新たな色彩と光の表現に、絵の難しさを知り苦悩するゴッホは疲労と神経の浪費を重ね、都会を離れて南フランスのアルルに一人移る。大自然の中、とりつかれた様に作品を次々と生み出してゆくゴッホは、待ち望んだゴーガンとの共同生活を始める。しかし、心では尊敬し合いながらも衝突する二人。
 ある日、ゴッホは、愛する酒場女のラシェル(原田琴音)がゴーガンの膝の上にいるのを目撃する。恋人、絵、酒、文明、神、道徳、そして……錯乱。論争と反目を繰り返してきた友ゴーガンは静かに部屋を出て行ってしまう。ゴッホは自省と狂気の中で、己れの耳にカミソリをあてるのだった……。

 第一場で演じられたエピソード、ゴッホが福音伝道者として坑夫たちのために働いていたことは初めて知りました。弱く貧しい者たちに寄り添うという彼の生き方を暗示する上手い導入でした。
 そしてハーグ、パリ、アルルと舞台は移っていきますが、この間、ゴッホの心の揺れ幅がじょじょに大きくなっていきます。美と真実を表現すべく一途に画業に打ち込み、激しい情熱をもって議論をたたかわせる。その一方で絵はまったく売れず、己の芸術が世間に理解されないことに苛立ち、自信を失うゴッホ。打開のためにいろいろな画家の技法を取り入れますが、それをゴーガンに「模倣」と批判されて怒り狂い、罵り、さらに自信をなくすゴッホ。そんな彼を弟テオは多くの犠牲を払いながら支え続けますが、それがさらにゴッホを苛みます。その彼を心配して気遣う絵画屋のタンギイ(青木和宣)や郵便配達夫のルーラン(沖永正志)や酒場女のラシェル(原田琴音)のあたたかい演技には心救われる思いでした。君は決して一人ではないのに。
 しかし、ゴーガンにラシェルを奪われたと勘違いし、さらに彼が共同の下宿を出てタヒチに行くと知ったときに、ゴッホの精神は壊れ狂気の淵へと沈んでいきます。このあたりの藤原章寛の演技は鬼気迫るもので、とくに自らの耳を切断する場面では息が止まりました。
 そしてエピローグです。舞台中央には、頭部に包帯をまいて一心不乱に絵を描くゴッホ。すべての登場人物が姿を現して、短い台詞をつないでいきます。余分ではないかと違和感を覚えましたが、脚本家が一番伝えたいメッセージが込められているのでしょう。ゴッホを讃えたあとに、彼の芸術に理解を示さなかったオランダやベルギーやフランスの人びとを「憎む」と言い切ったのには驚きました。さらに貧困のうちに夭逝した日本の画家、長谷川利行佐伯祐三村山槐多青木繁の名を挙げ、彼らの芸術を理解しなかった日本の人びとを「憎む」と続きます。あまりに直截的な物言いに腰が引けてしまいますが、その真摯な思いは充分に理解できます。何度でも引用しますが、『ガザに地下鉄が走る日』(みすず書房)に記されていた岡真理氏の言葉です。

 自殺という宗教的禁忌を犯して地獄に堕ちること、封鎖下の生き地獄を生きることのあいだに、もはや違いが見いだせず、命を絶つ者たちが激増しているガザで、それでも生の側にとどまり続けること、人間であり続けること、それがガザの人々の闘いの根幹を形成しているこのとき、《芸術》というものが、どれほど彼、彼女らを支える力の源、糧であることか。プリモ・レーヴィの『これが人間か』を読んだ者なら、ダンテの「神曲」を諳んじていたことが、絶滅収容所にあって、いかにレーヴィの生を支えたか、知っているだろう。イスラエルがアル=ミスハール文化センターを標的にしたのも、センターがガザのアーティスティックな活動の拠点であり、人間をただ生きているだけの命に還元してしまおうとする完全封鎖の暴力のなかで、アートというものが、それでもなお人々を深く《人間》たらしめる魂の糧であることを知っているからだ。(p.300~1)

 また最近読んだ『中学生から知りたいウクライナのこと』(小川哲・藤原辰史 ミシマ社)には、小山哲氏のこんな言葉がありました。

 つまり、こういう状況になったとき、自分にいちばん刺さる言葉、文章は、結局、歴史家の文章じゃないんですよ。小説家だったり、芸術家だったり、広い意味での「アート」に関わる人たちの紡ぎ出す言葉が、実はいちばんフェイクに屈しない強いメッセージ性を持っている。そのことにあらためて気づかされました。
 そのうえで、じゃあ、歴史研究者として、歴史学で明らかにしたことを語るときにどうするのか、という問題が自分にはあるんですよね。答えはぜんぜん出ていないのですが。
 誤解を招く表現かもしれませんが、フェイクに打ち負かされない言葉は、実はアートのなかにあるのかもしれません。(p.174~5)

 "魂の糧"であり"フェイクに打ち負かされない言葉"でもある芸術、それに全身全霊をかけて打ち込む若者を支えないのは、憎むべき蛮行である。強烈なメッセージですが、しかと受け止めたいと思います。政治家や官僚のみなさんも、しっかりと受け止めてくださいね。コロナ禍における芸術家へのサポートはあまりにもお粗末すぎます。私たちの魂なぞどうでもよく、フェイクをまきちらすのに何の良心の呵責を感じないのなら、話は別ですが。

 なお黒澤明監督の映画『夢』におさめられている八つのエピソードのうちの一つ「鴉」が、主人公の日本人がファン・ゴッホの絵画世界の中に入り込んで本人に出会う夢話となっているそうです。こんど是非観てみましょう。

 本日の写真は、私が旅行の際に撮影したゴッホにゆかりのあるものです。

クレラー・ミュラー美術館
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クレラー・ミュラー美術館
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アムステルダムで売っていたお土産
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ゴッホの下宿(パリ)
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オーヴェールの教会
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ゴッホの下宿(オーヴェール)
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ゴッホが描いた麦畑
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ゴッホが亡くなった家
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フィンセントとテオの
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by sabasaba13 | 2023-02-03 06:20 | 演劇・落語 | Comments(0)
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