五山送り火編(4):「ポット」(17.8)

 さて時刻は午後一時ちょっと過ぎ、さすがにお腹がへりました。「スマート珈琲店」で玉子サンドを食べようと来店したら長蛇の列ができています。なぜ行列に並んでまで喫茶店に入ろうとするのか理解できませんが、よほど美味しいのでしょう。再訪を期す。御幸町教会に行く途中、市役所の西側で「ポット」という喫茶店を発見しました。駄目でもともと、当たって砕けろ、人生万事塞翁が馬、入ってみましょう。客はわれわれのみ、そして玉子サンドも珈琲も美味。これは超穴場です、お薦め。
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 それにしても京都には、地元資本の素敵な喫茶店が多いですね。『路地裏の資本主義』(角川SSC新書231)の中で平川克美氏がこう述べられていました。

 これらの理由以上に喫茶店減少に拍車をかけたのは、日本人のライフスタイルの変化だろうと思います。どういうことかと言うと、喫茶店の椅子に座ってボーッと半日を過ごすような人間が生きていくのが、難しい時代になったということです。当時の私が、今を生きていることを想像すると、アルバイトの収入では食べるのがやっとで、コーヒー代を払って無為の時間を過ごす余裕は、どこを探しても見つからないように思えます。
 あの頃は、何であんなに余裕があったのだろうかと不思議です。喫茶店主にしても、お客にしても、非効率のモデルのような場所が喫茶店だったのです。それでも、町のあちこちに喫茶店が存在し、やっていけたわけです。無為の時間を生み出す場所がやっていける時代だったのです。
 喫茶店での無為の時間とは、本を読んだり、書き物をしたり、議論を戦わせたりする時間であり、文化が育まれる場所でもありました。こういう文化自体が廃れ、人々は駅前で朝のコーヒーを飲んで仕事へ向かい、バリバリと稼ぎを増やすことに熱中し始めました。
 いやそうしたくてしているわけではなく、そうせざるを得ないから時間を刻んでいるのです。いつの間にか、日本は東アジアの発展途上の文化国家というよりは、経済発展が極点にまで達した経済大国になっていたということです。(p.71~2)

 京都には"喫茶店の椅子に座ってボーッと半日を過ごすような人間"が多く、"無為の時間を過ごす余裕"があるということなのでしょうか。だとしたら素晴らしいことです。人間らしさを大切にする京都の分厚い伝統が、「競争」「自己責任」を是とする新自由主義を拒否しているのかもしれません。

by sabasaba13 | 2023-02-06 07:39 | 京都 | Comments(0)
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