彼女が受けたいじめについて、『ピリカチカッポ 知里幸恵と「アイヌ神謡集」』(石村博子 岩波書店)はこう記しています。
1910(明治43)年春、幸恵は上川第三尋常小学校に入学する。そこで自分が差別といじめの対象であることを初めて知らされるのだ。同じ学校には、コタンから何人もの子どもたちが登校していた。和人の男の子はアイヌの子がいれば束になって取り囲み、「ア、犬!」「臭い、臭い」と責め立てた。上履きは抜き取られ、犬だからと犬をけしかけて追いかけて来る。追いかけられた子は恐怖で震え上がった。幸恵のことも悪ガキたちは放っておかない。鼻をクンクンさせて近寄って来て「こいつ、アイヌなのに臭くないぞ!」と騒ぎ立てる。「もう、学校に行きたくない」と訴える幸恵に、「和人に負けてなるものか!」とマツ(※金成マツ、伯母)はくじけることを許さなかった。
マツは最初から幸恵を子ども扱いはしなかった。(p.32)
『熱源』(川越宗一 文藝春秋)では、金田一京助の後悔の念についてこう述べています。
もう七年前になる。アイヌの少女、知里幸恵が東京の金田一の家で死んだ。北海道で出会った彼女は、天分の語学の才と、自分を育てたアイヌ語への強い執着を持っていた。金田一は上京と本の執筆を勧めた。幸恵は心臓に疾患を持っていたが、厭わず執筆に邁進した。校正刷りに必要な事柄を書き終えたまさにその時、激務に耐えかねたのか心臓が動きを止めた。
残された原稿は、アイヌ語の神謡に透き通るような誌的な日本語訳を付したものだった。葬式を出し、出版を掛け合い、ようやっと落ち着いた金田一に自責の念がぽつりと芽生え、あっというまに心を絡め取っていった。
自らの研究のために彼女の命を食い潰した。東京に呼ばなければ、住み慣れた地で暮らすことができれば、彼女はもうすこし生き長らえたのではないか。人類の深淵に文明の光を当てようとした自分は、人々の生きた証や命そのものを、荒々しくもぎ取って陳列台に並べているだけではないのか。(p.389~90)
htmx.process($el));"
hx-trigger="click"
hx-target="#hx-like-count-post-32984476"
hx-vals='{"url":"https:\/\/sabasaba13.exblog.jp\/32984476\/","__csrf_value":"97b828a1ed405b054c5336c0b1090a21cb71dc39fabd260241b00c00689a57d03b4410ac84a8996d51c552c54d5efb770b07fd714d6dc6070c3c22a1b23255b4"}'
role="button"
class="xbg-like-btn-icon">