上野通明頌

 チェリストの末席を汚す者として、やはりJ・S・バッハの「無伴奏チェロ組曲」には深い思い入れがあります。たった一本のチェロが紡ぐ音の小宇宙。いつの日にか全曲を演奏できるよう練習に励んでいます、見果てぬ夢ですが。
 よって一番多くのCDを持っているのもこの曲です。パブロ・カザルスヨー・ヨー・マロストロポーヴィチ、ピエール・フルニエ、パオロ・ベスキ、ブリュノ・フィリップの六種類をとりかえひっかえ聴いています。実演を聴いたのは二回、ジャン・ワンとミーシャ・マイスキーでした。
 このたび、2021年のジュネーヴ国際コンクール・チェロ部門で日本人初の優勝を果たした上野通明(みちあき)氏という新進気鋭の若きチェリストが、無伴奏チェロ組曲を一日で全曲演奏するという情報を得ました。普通は二日に分けて演奏するのに、何という剛腕。しかも会場が神奈川県立音楽堂、そう、東京文化会館を設計した前川國男によるものです。これは二重の楽しみ、山ノ神を誘って横浜へと行きました。

チラシにあった氏本人のメッセージと、パンフレットに載っていた曲の解説を引用します。

 バッハの無伴奏チェロ組曲は、チェロを始めたきっかけとなった曲でもあり、幼い頃教習本を除いて1番初めに習った曲でもあります。チェロを始めてから様々な国に住み、様々な師匠のもとでチェロを学んできましたが、この曲はその間ずっと勉強し続けてきた曲なので、自分の人生を、成長を初めからずっと見守ってくれてきた気がします。
 決して複雑に書かれた曲ではないのですが、それ故に弾き手の想像力を膨らませる余地が多くあります。この曲を演奏しながら時に自然、喜びや悲しみ、生や死、神聖さなど様々なことを感じますが、これらは世界中の誰もが人生の過程で考えたり感じたりする事でありながら、皆それぞれ考えや感じ方が違い、それ故この曲にも千種万様の弾き方、聴き方があるのではないでしょうか。
 おそらくこの曲から自分が何を感じるかはこれからも変化し続けていくと思いますが、初めての全曲演奏会、会場で皆様と無限に広がるバッハの無伴奏組曲の魅力を共有できる事をとても楽しみにしております。

 無伴奏作品としては、やはりバッハ作曲の「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ」と並ぶ不朽の名作として知られる。同じパルティータ&ソナタが弦楽器の重音奏法を駆使しているのに対し、チェロ組曲は単音主体で構成されているが、それにも関わらず壮大な和声進行を実現した作品として、音楽史上においても極めて重要である。全6曲すべてがプレリュード+舞曲の形をとり、ひとつの作品における各曲の調性がすべて同じというのも、全曲に共通している。本日は上野通明の希望により、番号順に演奏される。
 なんといってもプレリュードが有名な第1番はト長調による開放弦を多用し、極めて豊かで自然な響きを実現している。第2番は全6曲中もっとも内面的である。美しく流れるような第1番の後に聴くと、よりその個性が引き立つ。一転して、輝かしいハ長調の第3番。非常に明快でありながらチェロ1挺とは思えないほどの世界観を表現しており、バッハ音楽の極致を堪能できる。第4番は比較的地味なイメージを持たれがちだが、内容は非常に充実しており、野心的ですらある。変ホ長調という調性により技術的な制約が多く、難曲としても知られる。ハ短調の第5番は、最高弦のA線を1音下げてg音にする特殊な調弦が指示されている。シリアスでありながら器の大きい作品である。第6番はもともと高音弦を追加した5弦チェロのために書かれた作品。本日は通常の4弦チェロで演奏するが、当然ながら技術的難度が高い。独特の華やかさが表現されている。

 なお使用楽器は1758年製P.A.Testore、弓は匿名のコレクターよりF.Tourteをそれぞれ貸与されたものです。
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 練馬から東京メトロ副都心線・東急東横線で横浜まで直通、便利になったものです。しかし好事魔多し、ホームドアの不具合で列車が大幅に遅延。横浜駅からJR根岸線に乗り換えて桜木町駅で下車、紅葉坂をのぼって音楽堂にやっと着きましたが無情にも演奏が始まっていました。トホホホホ… 第1番はロビーのモニターで聴いて、終わると同時に係の案内でホール内に入り、第2番から聴くことができました。

 無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV 1007
 無伴奏チェロ組曲第2番 ニ短調 BWV 1008
 無伴奏チェロ組曲第3番 ハ長調 BWV 1009

 休憩25分

 無伴奏チェロ組曲第4番 変ホ長調 BWV 1010
 無伴奏チェロ組曲第5番 ハ短調 BWV 1011

 休憩20分

 無伴奏チェロ組曲第6番 ニ長調 BWV 1012

 ほんとうに素晴らしいバッハでした。CD・実演を含めて、これまで私が聴いたなかで最高の無伴奏チェロ組曲です。
 まずその音の美しさ。これはホールの音響も関係していると思いますが、全身を包み込むように豊かに響きます。特筆すべきは弱音の美しさです。よくチェロの先生から「pは弱い音ではない」と言われますが、しっかりと芯のある小さな音がホールを充たします。
 そしてダイナミクスの変化やテンポ設定に十分に気を使い、その楽章をもっとも輝かせる解釈をほどこしていること。ただ者ではありませんね。
 テクニックについては文句のつけようがありません。完璧。私も実際に弾いていて、いずれも難曲なのは体で知っています。しかしどんな難しいフレーズも易々と弾ききり、難曲であることをまったく意識させません。
 リズム感もお見事。あらためて舞曲であることを感じさせてくれました。特に第5番のジーグでは、踊るように疾走する悲哀に感銘を受けました。
 自由自在・天衣無縫にほどこされたトリルや装飾音符も魅力的。堅苦しいしかめ面のバッハではなく、遊び心に満ちた愉しいバッハです。

 そして全曲を聴き終わって感じたのは、音楽とバッハを畏敬し愛し楽しむ上野氏の姿勢です。ジュネーヴ国際コンクール優勝時、ヨー・ヨー・マに「これで引退できる」とまで言わしめたのも、さもありなん。
 武久源造氏とともに、これからも注目し聴き続けたい音楽家です。

by sabasaba13 | 2023-06-08 06:05 | 音楽 | Comments(0)
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