美瑛編(65):札幌(17.8)

 中に入ると、丸太がむき出しとなった力強い小屋組み印象的です。
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 彼のプロフィールを、エアスケープ建築設計事務所の「houzz」というサイトから引用します。簡にして要を得たすばらしい紹介です。

 チェコに生まれ、のちにアメリカ国籍を取得したレーモンド(1888-1976)が、フランス生まれのアーティストである妻のノエミ・ペルネッサンとともにライトのもとで働き始めたのは、1916年のことだった。1919年、帝国ホテル建設に携わるライトを手伝うため夫妻は東京にやって来る。それから40年以上にわたり日本で過ごすなかで、400件を超える設計を手掛け、レーモンド自身の仕事だけでなく、彼の事務所で働いていた吉村順三や前川國男らの仕事をとおして日本のモダニズム建築に大きな影響を与えることになる。
 師のライトと同じく、レーモンドも建物内で使う家具や照明すべてをノエミとともに設計しており、その土地の伝統や風土を尊重することが重要であると理解していた。1921年に独立して事務所を構えると、帝国ホテルと同じ現場打ち鉄筋コンクリートを使いながらも、その中に伝統的な日本の木造建築を思わせるディテールを加えるなど、ライトの影響下から脱する試みを始めている。またレーモンドは、1923年の関東大震災で多くの建物が崩壊してしまった東京で、フランス大使ポール・クローデルなどのために小規模な木造住宅をいくつか設計している。
 イタリア大使館別荘プロジェクトを引き受けたレーモンドは、ともに帝国ホテル設計にも携わっていた内山隈三、そして伝統的工法だけでなく新しい技術を取り入れることにも抵抗のなかった日光大工の名棟梁・赤坂藤吉と協働して作業を進めていった。赤坂は、オープンプランの間取りにも伝統的な尺貫法による間(けん)を用い、建材選びを助けたほか、天然の木材の扱いにおいて驚くべき能力を発揮した。モダンでありながら日本建築の伝統を反映したレーモンドのデザインは、用いた自然素材と絶妙に一体化しており、永久的に建物が周囲の環境に溶け込んでいるようだ。レーモンドはのちにこう記している。「日本は美しい国だ。ここでは、家のなかに自然を取り込んで人間がその恩恵を受け、身近に自然と触れながら健康的で現代的な生活を送るべきとされており、またそれが可能なのだ。

 私は彼の建築が好きで、これまでもカトリック新発田教会聖パウロ教会東京女子大学群馬音楽センターイタリア大使館別荘旧赤星鉄馬邸を訪れたことがあります。

 なおアントニン・レーモンドの名前が出たついでに、一つエピソードを紹介しましょう。[参考文献:『建築探偵 神出鬼没』(藤森照信 朝日新聞社 p.108~9)] 日本で活躍したレーモンドは1938(昭和13)年にアメリカに帰国し、軍が立案した計画に参加することになります。それは「空襲」という日本の木造都市だけに有効な世界初の戦略で、アメリカ軍もその実効性には疑問がありました。そこで日本の都市や建築事情を知悉しているレーモンドを招き、彼の指導でユタ州に木造の町が作られ、繰り返し燃やされたそうです。戦後、彼は再び来日し活動を開始しますが、当然の如く日本の建築家から強い批判をあびることになります。しかし彼はこの計画に参加した理由については、黙して語りませんでした。藤森氏はその理由について、こう推測されています。レーモンドはチェコ出身で、彼が建築の勉強のため渡米した後、ナチス・ドイツによる侵攻が行われました。その際に、彼の五人の弟と妹は、ある者は国外脱出をはかって処刑され、ある者は強制収容所に送られて消息を絶ってしまいます。彼は、ナチス・ドイツと手を組む日本を叩くことによってしか、自分たちは救われないという思いがあったのではないか。そして以下は私の推測ですが、戦後彼が高崎の音楽センター建設に献身的に協力したのは、ある種の罪滅ぼしの意があったのではないか。うーむ、建築に歴史あり、ですね。

by sabasaba13 | 2023-07-29 07:24 | 北海道 | Comments(0)
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