
パレスチナで大規模な殺戮が起こりそうな動きに、暗澹とした気持ちを抱いています。いま、私にできることは、パレスチナ問題の発端とその後の経緯、そこで何が起きたのか/起きているのか、そして誰が苦しみ、誰が苦しめているのかについて知ることしかありません。イスラエル建国とパレスチナ人の難民化から70年、高い分離壁に囲まれたパレスチナ・ガザ地区についての歴史と現状、そこで生きる人びとについて綴った『ガザに地下鉄が走る日』(岡真理 みすず書房)という好著がありますのでぜひ紹介します。著者の岡真理氏は、現代アラブ文学・パレスチナ問題・第三世界フェミニズム問題を専門とする、京都大学名誉教授です。贅言はやめましょう、ぜひ氏が述べるガザの歴史とそこに生きる人びとについて耳を傾けてください。
デイル・ヤーシーン。それは長らく「ナクバ」の代名詞だった。イスラエルの建国前夜の1948年4月、エルサレム近郊にあるこのパレスチナ人の村で、極右のユダヤ民兵組織によって引き起こされた虐殺事件は、ナクバの悲劇を象徴する出来事としてパレスチナ人に記憶され、そのようなものとして長らく語られ続けてきた。しかし、パレスチナの地に「ユダヤ国家」を建設するために、そこに住まうパレスチナ人を一掃し民族浄化する過程で、実際にはデイル・ヤーシーンと同規模ないしはそれを上回る集団虐殺が、パレスチナの各地で複数、起きていたことが明らかになっている。小規模の虐殺を含めれば、その数は何十にも及ぶ。(p.49)
デイル・ヤーシーンで起きたことは、パレスチナに留まろうとするアラブ人の運命とはこのようなものだという、パレスチナ人に対する見せしめだった。イラン・パペは、その著書『パレスチナの民族浄化』において、パレスチナの地にユダヤ国家を建設する以上、そこに住まうパレスチナ人を民族浄化することは、シオニズムのプロジェクトに本質的かつ不可避的に内包されていたとし、パレスチナの民族浄化がシオニスト指導部による組織的な計画であったことを実証している。デイル・ヤーシーンは、パレスチナ人を恐怖に陥れ、その「自発的な」集団避難を促し、この民族浄化を容易にするための戦略の一環だった。イルグンらの犯罪行為を非難する体を装いながら、シオニスト指導部がこの事件を積極的に報じて宣伝したのもそのためだ(とはいえ、パペによれば、「パレスチナの町々を攻撃するに際して、彼ら〔シオニスト指導部〕は、〔デイル・ヤーシーンの〕虐殺のせいで住民が逃げ出すことを期待していたが、ことはそう巧くは運ばなかった。彼らは1948年の4月のあいだじゅう、いろいろな町の住民たちを虐殺し、強制追放しなければならなかった」とも述べている)。(p.52~3)
この70年間、パレスチナの内と外で、パレスチナ人の身に繰り返し生起する虐殺は、ナクバ、すなわちパレスチナ人の民族浄化が、遠い過去に起きた昔話ではなく、現在もなお進行中の出来事であることを示している。イラン・パペはこれを「漸進的ジェノサイド(Incremental Genocide)」と呼ぶ。長い歳月をかけて徐々に進行するジェノサイドという意味だ。パレスチナ問題とは、この漸進的ジェノサイド、終わらぬナクバの問題である。(p.56)
だが、私は思わずにいられなかった。もし、いま、ここに、ガザのパレスチナ人がいて、この光景を目にしたとしたら…? 同じ地球上で、ガザに閉じ込められたパレスチナ人が必死に世界に救いを求めながら、日夜、なぶり殺しにされているとき、そんなことは自分達とは何の関係もない別の惑星の出来事であるかのように、新年のバーゲンセールに興じる者たちの姿を見たとしたら…? そうしたら彼らは果たして、この世界を許すことができるだろうか。(p.62~3)
「テロと報復の連鎖」「暴力の悪循環」といった文言が、パレスチナ・イスラエルを語る際の枕詞のように、日本のマスメディアでも繰り返された。しかし、十代、二〇代の若者が、ダイナマイトで自らの肉体を木端微塵にすることで周囲の人間を殺傷する暴力と、最新式の兵器で重武装した占領軍が、戦闘機や戦車や軍事用ブルドーザーで市街地を攻撃し、住民を殺傷し、難民キャンプを瓦礫の山にする圧倒的な暴力が、どちらも「暴力」にちがいないとはいえ、それらは果たして「同じ暴力」なのだろうか。両者のこの圧倒的な非対称性を無視し、「暴力」という言葉で平準化して、事態を「暴力の悪循環」に還元してしまうことが果たして、彼の地で起きている出来事を適切に表象していると言えるのか。イスラエル領内に侵入したパレスチナ人がそこで行う自爆攻撃がよしんば「テロ」と呼びうるとして、では、パレスチナ人のその「テロ」は、いかなる状況が生み出したものなのか。未来あるはずの若者たちを自爆にまで追い詰めずにはおかない状況とは、いったい、いかなる類のものなのか。そうした状況を生み出す問題の根源とは何なのか。
そうしたもろもろの問いを問うことなく、「テロと報復の連鎖」や「暴力の悪循環」といった枕詞を冠せられて書かれる記事は、そこで起きている出来事を報道しているようでいてその実、占領者と被占領者があたかも対等な存在であるかのように、両者のあいだの圧倒的な非対称性を覆い隠し、さらにパレスチナ人のテロルが、この当時ですでに三十数年、違法に続いている占領の暴力によって生み出されているという根源的な事実を隠蔽してしまう。(p.64~6)
何十年にもわたり、いかなる犯罪を行なっても責任を問われることもなく処罰されることもない、そのような「無法」国家の存在に、その不正に、この世界が目を瞑り、許容し続ける限り、世界が倫理的に蝕まれていくのは当然のことだ。(p.93)
虐殺から20年目のシャティーラを私が訪れた翌2003年の2月、ベルギー最高裁は、パレスチナ人有志によるシャロン首相訴追に関しベルギーの司法管轄権を認め、シャロンが首相を退任し免責特権を失えば、訴追もありうるという画期的な裁定を下した。しかし、イスラエルとアメリカが猛反発し、ベルギーに外交圧力をかけ、国際人道法違反処罰法は同年、廃止に追い込まれた。そして、サブラーとシャティーラの虐殺の責任者、シャロンは2006年、首相在任中に脳内出血で倒れ、以降、昏睡状態となり、2014年、裁かれることなく世を去った。
ガザに本部を置くパレスチナ人権センターの設立代表、ラジ・スラーニ弁護士が強調するように、イスラエルの犯した戦争犯罪がこれまでひとたびも正しく裁かれてこなかったという、国際社会におけるこのイスラエル不処罰の「伝統」が、パレスチナ人に対してイスラエルが繰り返し戦争犯罪を行使することを可能にしている。サブラー・シャティーラ、ジェニーン、ガザ、繰り返される虐殺…、パレスチナ人がどのような戦争犯罪、不正を被ろうとも、国際社会は寛大にも、つねにその犯罪を看過し、責任者を処罰しないことで、世界に向けてメッセージを発してきたのだと言える、パレスチナ人などとるに足らない存在であると。彼らは我々と等価な存在ではない、ノーマンであると。ラジ・スラーニは言う、私たちは人間として尊厳をもって生きる機会が欲しい、これは不当な要求だろうか、と。
1948年のナクバからすでに70年もの歳月が過ぎた。この70年に及ぶパレスチナ人の闘いは、生き延びるための闘い、武装解放闘争、政治外交による闘い、ラジ・スラーニが闘う国際法による闘い、アートによる闘いなどさまざまな形態をとってきたが、それを一言で表すならば、ノーマン/人間ならざるものとされた者たちが人間となるための闘い、対等な人間としてこの世界にその存在が書き込まれるための闘いであると言えるだろう。(p.128~9)
国際紛争は従来、死傷者の多寡でもって、紛争の強度が測られてきた。600万人ユダヤ人の死(ホロコースト)、三カ月で100万人の死者(ルワンダのジェノサイド)、一発の爆弾で14万の死者(広島の原爆)、あるいは、一晩で10万人以上の死者(1945年3月10日の東京大空襲)など、私たちは死者の数を強調することで出来事の深刻さを表現しがちだ。パレスチナとイスラエルの紛争は、70年という長きにわたるにもかかわらず、そしてその間、100人単位、1000人単位の集団虐殺が幾度となくパレスチナ人の身に生じてもいるが、死傷者の数という点では決して多くはない。だが、自身、パレスチナ難民二世でもある社会学者、サリ・ハナフィは、こうした従来型尺度によってはパレスチナ・イスラエル紛争の深刻さを測ることはできないとする。パレスチナで進行している事態、それは、その時々に生起する出来事の一つひとつをとってみればジェノサイドではないとしても、「スペィシオサイド」、すなわち「空間の扼殺」だとハナフィは言う。
「空間の扼殺」とは、単に空間を物理的に破壊することを意味するのではない。「空間」とは人間が人間らしく生きることを可能にする諸条件のメタファーである。入植地建設や分離壁によって生活の糧である土地が日常的に強奪され、農業を営むにも生活をするにも慢性的な水不足に置かれ、夥しい数の検問所や道路封鎖によって移動の自由もない。入植者によるハラスメントや暴力行為は日常茶飯事であり、それに抵抗した者は、イスラエルの安全保障を脅かしたと見なされ、即、拘留される。拘留は何カ月も、あるいは何年にも及ぶ。十年以上収監されている者も珍しくない。占領は、占領下の生活のありとあらゆるレヴェルで、パレスチナ人が自分たちの土地で人間らしく、ごく普通の暮らしを送る可能性をことごとく潰していくことで、命を直接、奪わずとも、彼らの生を圧殺していくのである。人間らしく生きたければ、パレスチナを出ていくしかない。民族浄化は形を変えて、継続しているのである。(p.221~2)
それは想像を絶する攻撃だった。アウシュヴィッツのあとで、人間が人間に対してなしうることに想像を絶することなど、もはや何一つないのだとしても。
世界がクリスマスの余韻にひたるなか、その攻撃は突然、始まった。ガザ地区はその前年から完全に封鎖されていた。世界最大の野外監獄と化したそこに、一年以上に及ぶ完全封鎖で疲弊した150万もの人々(当時)が閉じ込められていた。逃げ場もなく、まさに「袋のネズミ」状態に置かれた彼らの頭上に、空から海から陸から、ミサイルや砲弾の雨が22日間にわたり降り注いだ。死者は1400人以上に及んだ。4年数カ月に及ぶ第二次インティファーダの死者が約3000人だ。その半分近くが、たった三週間で殺されたことになる。まさに一方的な破壊、一方的な殺戮だった。
自治政府関連の建物も警察署も、大学も、スポーツセンターも、公園も、民家も、攻撃された。病院も、国連の学校も、モスクも容赦されなかった。いくつもの家族が瓦礫の下で生き埋めになって死んだ。攻撃は夜に集中した。真っ暗闇の中、砲弾やミサイルが周囲に着弾する轟音や振動が、深夜から明け方まで間断なく続く。そんな恐怖の長い夜を耐え抜いて、ようやく朝、陽がのぼって攻撃が止み、外を見れば、爆撃されたのは墓地だったり、すでに幾度となく攻撃され破壊された建物であったりする。住民をただただ恐怖に陥れるためだけになされる爆撃、まさに純粋テロだ。それが22日間、続いた。
22日間…。それは終わったからこそ言えることだ。攻撃が現在進行形で続いているさなか、空爆下の人々は、この事態があと何日、続くのかなど知る由もなかった。この晩を生き延びて、もう一度、朝を迎えられるのか、そんな恐怖の夜を22夜も経験したのだ。私たちが新年をのどかに言祝いでいたとき、ガザは血にまみれていた。(p.233~4)
医療従事者に対する攻撃は国際法違反だ。しかしガザでは、負傷者の救出に奔走する救急医療士たちが狙い撃ちされ、殺された。ガザでパレスチナ人の人権擁護活動に携わる外国人の若者たちは救急車に同乗し、救急医療士を狙撃から護った。(p.235~6)
白燐弾。燐は大気中で自然発火するため、空気に触れているかぎり鎮火しない。人体に付着すると、骨に達するまで皮膚と肉を焼き焦がし、吸い込むと、肺を内蔵から焼き尽くす。イスラエルは照明弾として使用したと主張するが、「ガザ、2008、白燐弾」で検索すれば、正視するに堪えない、頭部やからだに痛ましい火傷を負った子どもたちや、真っ黒な灰の塊と化した赤ん坊の写真などが多数、アップロードされている。(p.237)
経済的見地から言えば、軍事産業はイスラエルの基幹産業のひとつだ。広島と長崎が二種類の新型爆弾の破壊力を実地に測るための実験場だったように、ガザもまた新兵器開発のための恰好の実験場であり、同時にガザ攻撃は、世界市場にイス別の次元では、法の支配がないことが指摘できる。ガザに本部を置くパレスチナ人権センター(PCHR)の代次元では、法の支配がないことが指摘できる。ガザに本部を置くパレスチナ人権センター(PCHR)の代014年8月3日に発表した「なぜ停戦だけでは十分ではないのか」と題する文章で、イスラエルの戦争犯罪がひとたびも裁かれていない事実を指摘していた。PCHRは2008-09年の攻撃における戦争犯罪について、イスラエルに対して1046名に関する490件の刑事告訴を行なったが、それに続く5年間でイスラエル当局から回答があったのは44件にとどまる。しかも、その内容はと言えば、「兵士一名がクレジット・カードを盗んだ廉で七カ月の懲役。兵士二名が9歳の少年を人間の盾に使ったことで有罪、三カ月の執行猶予。兵士一名が白旗を掲げていた一団に発砲し、女性二名を死に至らしめた件では、「火器の誤用」で有罪、45日間の投獄」だった。スラーニは言う。
ここに公正さなど欠片もない。これらの絶えざる戦争犯罪の衝撃の大きさと、にもかかわらず結果的に処罰がなされないことが、私たちの尊厳そのものを否定し、私たちの人間としての価値を否定している。これらの判決は、私たちの命など聖なるものではないと言っているのだ。私たちなど取るに足らないものだと。
それは国際社会も同じだ。安保理決議に反して半世紀以上続く西岸とガザの占領、ガザの完全封鎖(それ自体が戦争犯罪だ)、西岸における入植地や分離壁の建設など国際法違反の数々。そして大規模攻撃のたびに犯される夥しい戦争犯罪…。2008-09年の攻撃のあと、国連の事実究明調査団が組織され、提出された長大な報告書はイスラエルによる数多の戦争犯罪を指摘していたが、結局、うやむやになってしまった。パレスチナに関しては、法による支配など損しない。こうして、イスラエルを断罪しないことで国際社会は、スラーニが言うようにメタメッセージを発しているのだ。パレスチナなど取るに足らないものだ、何をしてもいい、と。(p.248~50)
ガザの歴史をざっと概観しただけでも、パレスチナ人がその難民的生の経験を通して、国連の援助でかろうじて命をつなぐ「難民」から、占領と闘う抵抗者、自らの権利を訴え、故郷への帰還と主権国家の樹立を求めて闘う政治的主体、自分たちの社会を自分たちで統べる市民へと変貌していったことが分かる。ガザの住民の八割が、ナクバで難民となった者たちとその子孫であり、分類上は依然として「難民」だが、彼らは60年を経て、ナクバ当時の「難民」とはまったく異質な存在へと変貌を遂げた。継続する完全封鎖と繰り返される攻撃が目論むのは、このパレスチナ人を、今日を生き延びることに汲々として、国際社会の恩恵がなければ生きていけない、テント暮らしの「難民」に再び鋳直すことにほかならない。ポリティサイド、政治的主体性の抹殺である。
だが、同時に、攻撃が繰り返されるのは、こうした破壊や殺戮や完全封鎖をもってしても、ガザの人々の、「パレスチナ人」という政治的主体性を消し去ることができないからだとも言える。刈り取っても刈り取っても伸びてくる逞しい雑草のように、いかに打ちのめされ、絶望の淵に沈もうと、70年前の民族浄化という歴史的不正義に対する闘いを、祖国帰還の夢を、彼らは決して手放そうとはしない。だから、彼らに対するポリティサイドの暴力も年追うごとに、なりふり構わぬすさまじさを増すのだとも言えよう。(p.251~2)
ナチスのジェノサイドの生還者、および生還者と犠牲者の子孫たちは、ガザにおけるパレスチナ人の集団殺戮を全面的に非難する-ガザに対するジェノサイド攻撃が続いていた2014年8月22日、ホロコーストの生還者、および生還者と犠牲者の遺族ら300余名が名を連ね、「ニューヨーク・タイムズ」紙に意見広告としてイスラエル非難の声明を発表、世界的反響を呼んだ。(略)
「二度と繰り返さない」というのは、誰の上にも二度と繰り返さないということを意味するのだ! (p.252~3)
地獄とは人が苦しんでいる場所のことではない。人の苦しみを誰も見ようとしない場所のことだ。-マンスール・アル=ハッラージュ (p.255)
従来、平和とは戦争のない状態であると考えられてきた。これに対し、1970年代、「平和学の父」と呼ばれるノルウェーの平和学者、ヨハン・ガルトゥングは、暴力を、戦争など物理的暴力が直接行使される「直接的暴力」、貧困や差別など社会の構造から冠雪的に生み出される「構造的暴力」、そして直接的暴力や構造的暴力を正当化したり維持したりする態度や思想などの「文化的暴力」の三つに分類して平和を再定義し、戦争という直接的暴力がないだけでは消極的平和に過ぎない、真の平和(積極的平和)とは直截的暴力に加え、構造的暴力がない暴力がない状態のことだとした。(p.267~8)
(※ムハンマド・マンスール医師)
-ディストピア小説か映画のプロット、あるいは戦慄すべき社会的実験のようです。完全に隔離された社会で、忌むべき状況のもとに置かれ、電気もなく、瓦礫のなか、独裁的な政府の支配下で生きる。いったい何が社会をひとつにまとめているのですか?
何もありません。人々は内輪もめばかりしています。かつては、みな同じ船に乗っているという感覚が人々を結び付けていました。誰もが封鎖に苦しんでいる、イスラエルの攻撃に苦しんでいるという感覚です。みなが運命をともにしているという思いがありました。それが今はもうありません。人々は互いを責め立て、罵り、腹を立てます。まさにカオスです。社会をまとめている要因と言えるものがもし一つだけあるとすれば、体制です。
-独裁政権[ハマース]が、ガザを全面的崩壊から守る最後の砦なのですか。
不幸なことに、そうです。もし、ハマースがいなければ、ガザにあるのは犯罪、四六時中、犯罪ばかりという状況になってしまうでしょう。[…]みな、考えるのは自分の利益のことだけです。私の同僚でさえそうです。ガザにはかつて連帯意識がありました。善良で強い人間関係で結ばれた、固く団結した社会でした。最近の人々は、親友のことにさえ無関心です。[…]家族でさえ助け合いません。私たちは今、ガザの社会が大規模かつ急速に瓦解しているさまを目撃しているのです。[…]
-そこから哲学的に導き出される結論とは?
人間性の喪失です。当然です。私の友人のイタリア人の精神分析医、フランコ・ディマシオは、生存のための闘いのなかで生きねばならないとき、私たちは人間性を喪失すると主張しています。
-人間性という言葉が意味するものとは何ですか?
他者の痛みを知る力です。(p.272~3)
なかでも、70年以上がたっても故郷に帰還できない文字どおりの難民が人口の七割を占め、さらに50年以上にわたり占領下に置かれ、そして2007年に始まる完全封鎖のもと、200万人の住民が監禁され、生命維持に必要な最低限のカロリーすらも供給されず、ドローンによって絶え間なく監視され、ミサイルが日常的に撃ち込まれ、数年おきに大規模な破壊と殺戮が繰り返されるガザ地区とは、今や「難民キャンプ」というよりも、むしろ「強制収容所」と呼んだほうが似つかわしい。今日を生き延びることが、明日、あるいは数年後に空爆で殺されるためでしかないような、そんな生活。ガザ、それは、アガンベンの言う、諸国家からなる空間に穿たれた穴、位相幾何学的な変形を受けた土地、生きながら死者たちが住まう砂漠の辺獄である。(p.281)
2018年8月9日、イスラエルはガザの150ヵ所を爆撃した。ハマースがイスラエルに向けて200発のロケット弾を放ったことに対する報復であるという。ビーチ難民キャンプにあるサィード・アル=ミスハール文化センターも爆撃され、五階建てのビルは瓦礫となった。イスラエルの常として、ハマースがここで活動していたから、というのがセンター攻撃の理由だ。2004年にオープンし、二つの劇場と映画館を擁する同センターは、ハマースではなく、ガザの芸術文化活動の一大拠点だった。完全封鎖のもとで「生きながらの死」を耐えるガザの人々に舞台や映画、コンサートを提供し、いくつもの劇団や楽団がここを自分たちの活動のホームグラウンドにしていた。ここから世界の舞台へ羽ばたいていった者たちもいる。センターはパレスチナの民族舞踊ダブケの舞踊団も運営しており、250名の子どもたちが参加していた。そのセンターが一瞬にして瓦礫の山になった。
自殺という宗教的禁忌を犯して地獄に堕ちること、封鎖下の生き地獄を生きることのあいだに、もはや違いが見いだせず、命を絶つ者たちが激増しているガザで、それでも生の側にとどまり続けること、人間であり続けること、それがガザの人々の闘いの根幹を形成しているこのとき、《芸術》というものが、どれほど彼、彼女らを支える力の源、糧であることか。プリモ・レーヴィの『これが人間か』を読んだ者なら、ダンテの「神曲」を諳んじていたことが、絶滅収容所にあって、いかにレーヴィの生を支えたか、知っているだろう。イスラエルがアル=ミスハール文化センターを標的にしたのも、センターがガザのアーティスティックな活動の拠点であり、人間をただ生きているだけの命に還元してしまおうとする完全封鎖の暴力のなかで、アートというものが、それでもなお人々を深く《人間》たらしめる魂の糧であることを知っているからだ。
センターが破壊された翌日、ガザのアーティストたちは楽器を持ち寄って、センターの瓦礫のなかで演奏した。十年前、2008-09年のガザ攻撃のときも、停戦になるやガザのアーティストたちは、破壊を免れた絵画作品を半ば崩れかけたビルの壁に飾り、それを撮影した動画を「廃墟のなかのアート」と題して世界に発信した。パレスチナ人の回復力(レジリエンス)を世界に見せつけるように。だが、文化センターを標的とする攻撃に現れているように、昨今のイスラエルの攻撃は、武装解放勢力(レジスタンス)を叩くというより、パレスチナ人のこの「レジリエンス」の根源、彼らが「それでもなお人間であり続けよう」とする精神的基盤-それこそがナクバからこの70年間、パレスチナ人の闘いを支えてきたものだ-を根源的に破壊しようとしているように思われる。(p.300~1)
本書を一読し、あらためてパレスチナ問題を根本的に解決する方法は、イスラエルがガザと西岸の封鎖と占領をやめてパレスチナ人による独立国家を認めることだけだと分かりました。
そして私にできることは、パレスチナ問題に対して無関心にならないこと、パレスチナ人の苦しみを知ること、「
殺すな」と強く念ずること、それだけです。
なお微かな救いなのが、パレスチナに対する祖国の所業に、深甚な憂慮を抱くイスラエル人がいるということです。映画『
沈黙を破る』に登場したユダ・シャウール氏(元将校)の言葉です。
多くのイスラエル人は「セキュリティー(治安・安全保障)・セキュリティー」と口を揃えて言います。自分たちの国を守らなければならない、と。しかしこの国がまもなく、まともな国でなくなってしまうことに気づいてはいない。私たち皆の"内面"が死滅しつつあるのです。社会の深いところが死んでしまいつつあるのです。それはここイスラエルで社会と国の全体に広がっています。
私は世界のあらゆる人びとにこう期待しています。ユダヤ人にはヘブライ語の諺で「他人の過ちから学べ。すべての過ちを犯す時間はないのだから」というのがあります。イスラエルのことだけを語っているのではないのです。世界のどこかを占領しているあらゆる軍隊が同じ過程をたどることになります。なぜなら、"占領"をし続けるには、他の方法などないのですから。
何とか彼ら/彼女らと連帯していけないものでしょうか。
そして私たちが関心を持たなければならない武力紛争は、パレスチナ紛争以外にも多々起こっています。ロシアによるウクライナ侵攻、アフガニスタン紛争、シリア内戦、クルド対トルコ紛争、リビア内戦、イエメン内戦…
それにしても、核戦争の可能性、気候危機、パンデミック、自然災害、一致団結して解決しなければならない問題が山のようにあるのに、人類はいったい何をやっているんだろう。バーナード・ショーとジョージ・オーウェルの言葉です。
月に人間がいるかどうか知らないが、もしいるとしたら、彼らは地球を精神病院代わりに使っているんだろうな。(バーナード・ショー)
一市民を殺すことは悪であるが、千トンもの高性能爆弾を住宅地域に落とすことは善しとされる世界の現状を見ると、ひょっとするとわれわれのこの地球はどれか他の惑星の精神病院として利用されているのではないか、と考えたくなる。(ジョージ・オーウェル)
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