文化後進国・日本

 財政難に苦しむ国立科学博物館(以下、科博)が、クラウドファンディングによって目標額をはるかに超える資金を得ることができたというニュースがありました。メディアによる報道は多くの方々の善意を褒め称えて終わっていましたが、ちょっと待った。こうした研究および教育機関を予算面で支えるのが国家の責務ではないのですか。心あたたかき一般市民に無心をさせるなんで、恥知らずもいいところです。そのくせ、アメリカから人殺しの武器兵器を爆買いする体たらく。なぜメディアは「恥を知れ、恥を」と追及しないのか。
 それにしても、日本の文化行政の現状はどうなっているのか、そして他国の状況はどうなのか。ぜひ知りたいところですが、この点もメディアは報道してくれません。幸い、『週刊金曜日』(№1447 23.11.3)の中で、中村富美子氏が「文化とは何か-国立科学博物館のクラウドファンディングが問う」という記事でこの問題を取り上げてくれたのでぜひ紹介したいと思います。

 まずは他国との比較ですが、氏はフランスを取り上げています。2023年のフランス文化省の「文化」予算は約44億2000万ユーロ(10月現在の換算率1ユーロ=157円で6939億円)で、国家予算全体に占める割合は約0・8%。日本の文部科学省の「文化芸術関係」予算1077億円で国家予算の0・094%。お寒い限りの数字ですが、それでも日本の文科省は「文化芸術立国の実現」のスローガンを掲げています。なお韓国の国家予算に占める文化予算の割合は1・24%で、これは先進国の中でトップです。氏によると、韓国では多くの文化施設が無料だそうで、文化政策に力を入れているとのことです。

 こうした数字の背後にある、文化に対する価値観、歴史的に培われてきた理念や思想もあわせて見る必要があります。そもそもフランスでは、今あるミュゼ(美術館・博物館)の起源はフランス革命にあります。かつて王宮だったルーブル宮殿がその収蔵品とともに没収され、王政を倒して生まれた共和国の所有となったように、王侯貴族に独占されてきた文化芸術が市民に開放されました。当時すでに、文化財とは何かという概念規定もなされています。それは「歴史を調べ、芸術を学び、科学を深める手掛かりとなる」ものである、と。言葉を換えれば、このときから文化芸術は公共の知的財源となり、国民統合の装置ともなりました。公共財であるから国が予算措置をし、その存在価値を守っていく。そして誰もがその財にアクセスできるよう民主化を図る。それは国の責務だと認識されてきました。

 今、EU(欧州連合)は新自由主義の牙城となり、あらゆる分野で単一市場を形成しようと圧力を強めています。フランスも年々、その傾向を強めているとはいえ、伝統的には文化財は市場原理の例外として取り扱われるべきとの立場をとってきました。それを象徴するのが、「文化的例外」という概念と政策です。1993年、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)交渉で、フランスはこの概念を楯に映画を守り闘いました。圧倒的なシェアで世界市場を独占するハリウッド映画に対し、文化・芸術作品は単なる商品ではないから保護し、自由貿易の例外とすべきと主張したのです。その考えが受け入れられないならGATT脱退も辞さないとフランスは譲らず、最終的には米政府が折れました。
 99年、カトリーヌ・トロットマン文化相(当時)は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)でこう演説しました。「文化的な財とサービスは、価値観や思想、意味の媒体として機能し、特別な性格がある。他の生産物のような貿易財ではない」。
 多様な文化を守るために芸術の創造を支え、研究を促進し、その成果に誰もがアクセスできるよう民主化を図る。その民主化の一つとして、21年に導入されたのが18歳の若者向け「文化パス」です。22年からは対象年齢も拡充され、たとえば18歳の若者には2年間有効で300ユーロ(約4万7100円)分のパスが提供され、舞台、音楽、映画、書籍などに使ます。そうでなくても国立のミュゼは18歳以下や納税免除者、求職者などは無料で、全入場者の約3分の1は、こうした無料の恩恵にあずかっています。

 さて、それではこうしたフランスに比して、日本には文化に対するどのような価値観や理念があるのでしょうか。以下、中村富美子氏の文章を引用します。

 フランスの伝統に「文化的例外」の考えがあるとすれば、はたして日本には文化に対するどのような理念があるのだろうか。同じように新自由主義が席巻しても、理念の重しがあければ簡単に押し流されてしまう。それが日仏の現状の違いのように思われる。
 科博が抱える問題に立ち戻れば、2001年以降、国立博物館・美術館が独立行政法人化されたことが大きい。5年間の中期計画の策定が義務づけられ、年度ごとに業務実績が評価される。しかも評価がしやすいようにと、数値化された目標設定が求められる。しかし文化の継承・発展という事業は、本来は長期的で数値化されにくいものだ。あえて短期的かつ数値化して評価しようとすれば、本質が失われる。また、他の独立行政法人と横並びで、国からの運営費交付金には効率化係数が課され、毎年削減される仕組みだ。専門性を有する人材の獲得も難しくなり、残された現場は評価疲れで意欲も減退する。その悪循環がとまらない。
 文化施設が置かれたこの現状は、同じく04年に独立行政法人化された国立大学にそのまま重なる。
 運営費交付金に毎年1%の効率化係数がかけられ、10年で予算は1割も削減。短期的で数値化される目標設定も同様だ。要するに民間の経営手法を、教育にも導入したわけだ。欧州の大学には存在しない手法で恥ずかしいかぎり、と大学人も嘆いている。
 運営費交付金は大学に不可欠の研究教育環境を保障する原資だ。いわば生活保障のようなこの基盤経費を削減されることで大学は急激に脆弱化している。経営効率化のために教職員は非正規され、予算の削減分を外部の競争資金に頼らざるをえなくなるから、教員はそのための書類作成に忙殺され、研究や教育にかける時間も削られる。競争的資金の獲得に振り回されれば、市場が望む方向に研究が流される。すぐに結果の出ない基礎研究は資金獲得が難しく、学術の多様性も損なわれる。
文化の貧困はまさに、教育・研究の貧困と根を同じくしている。
 教員が疲弊する一方で、学生も困難な状況に追い込まれている。フランスの大学はすべて国立で、欧州の多くがそうであるように授業料は無償。登録料として年に170ユーロ(2万6690円)かかるだけだ。日本の国立大学の標準額はいま入学料28万2000円、年間授業料53万5800円だ。
 こうした施策を可能にする公的教育費の対GDP比をOECD(経済協力開発機構)が算出している。スウェーデンは6・68%、フランスは5・25%。これに対し日本は3・32%だ(22年)。
 こうして見てくると、文化を語ることは、文化だけで終わらないことがよくわかる。
 科博の現状は、美術館や博物館などの文化施設、そして大学に導入された独立行政法人の制度が、もっぱら財政問題として予算措置されてきたゆがみを示している。そうした文化政策、教育政策の失敗が、文化や教育の現場で働く人材の非正規化、過剰労働など労働問題に結びつき、より大きな枠組みとしての日本における生活の貧困にも結びついている。
 フランスを含め、北欧、ドイツなどの伝統的な欧州モデルでは、教育や文化は公共財だ。財力によって受けられる教育の質が異なったり、芸術や文化の恩恵を受けられなかったりするのは公正でないと考える。
 日本では文化も教育も市場に任せ、受益者負担の個人主義的なモデルを推進するのか、それとも公共財として、誰もが等しくその財に貢献し、恩恵を受ける社会を求めるのか、今回の科博の件が投げかけているのは、そこだ。(p.46)

 はい、よーくわかりました。文化や教育に対する理念は…日本にはありません。とにかく文化や教育にかけるお金をひたすら削減していく、後は野となれ山となれ。良い文化を味わい、良い教育を受けたければ、金を出せ。♪ああ金の世や金の世や 地獄の沙汰も金次第♪ これが「文化立国」の実態です。
政治家や官僚の皆々様方は、私たちが豊かな文化で人生を実りあるものにしたり、教育によって知的に成熟したりすることには、これっぽちの関心もないのでしょう。♪笑うも金よ泣くも金 一も二も金三も金♪
 日本という国は「人権後進国」であるとともに、「文化後進国」「教育後進国」であるという冷厳な事実を直視しましょう。そして「軍事大国」「原発大国」「企業大国」をめざしていることも。

by sabasaba13 | 2023-12-24 07:45 | 鶏肋 | Comments(0)
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