高村美春氏講演会(原発事故)

 福島原発事故は終っていない。いまだに苦しんでいる方々が大勢いる。そして自公政権と東京電力はそれを忘れさせ、なかったことにて、原発の再稼働や新設に邁進している。許せません。
 ぜひ当事者の声を聞きたいと常日頃思っていましたが、その機会ができました。「NPO法人福島こども保養プロジェクト@練馬」主催による、「震災・原発避難者はいま Part9 東京電力福島第一原発災害をかたりつぐ ~"福島の声をあなたへ"~」という講演会が1月27日(土)に練馬区区民・産業プラザ(ココネリ)研修室で開かれるということなので、さっそくお話を伺いに行ってきました。
 研修室はほぼ満席、この問題に関心を持つ方が多いのに意を強くしました。以下、私の文責で、講演の内容をまとめます。

「福島第一原子力発電所から25キロに住む一人として」
 原発震災を語り継ぐ会・東日本大震災原子力災害伝承館語り部 高村美春

【プロフィール】
 福島県南相馬市原町区在住
 息子3人と猫8匹と暮らす
 震災時は老人ホームにてパート職員
 現在は遺跡発掘作業員の傍ら、通信にて考古学を学ぶ
 震災直後より原発事故を語る語り部として活動
 今年は、語り部を守るため一般社団法人を立ち上げ予定

 能登半島地震。NHKのアナウンサーが「東日本大震災を思い出してください」と絶叫。つらかった。みんな、忘れているのか。本当に覚えていたら、すぐ逃げたはずだ。自分から語らないといけない。

 「平成の大合併」によって、三自治体が合併して南相馬市となる。20キロ圏内、30キロ圏内で賠償額が変わる。なかには億単位の賠償金をもらった人も。「原発宝くじ」。地域の分断が始まる。

 2011年3月11日14時46分マグニチュード9、震度6強。190秒、約3分揺れた。1時間後、沿岸を津波が襲う。三男を迎えに保育園へ、みんな「お父さん」とは言わずに「お母さん」と呼ぶ。
 父の言いつけ、「満潮の時の津波には気をつけろ」(方言)を思い起こす。ネットで調べたら満潮は20時、車で山に避難して20時を過ぎてから帰宅。家に戻ると電気、ガス、水道は無事。片づければ住める状態。家族も家も無事と安心したが…
 津波により福島第一原子力発電所電源喪失。原発から3キロ圏内の住人に避難指示が出された。その後3~10キロ圏内に屋内退避指示が出された。
しかし自分たちには関係ないと思っていた。

 3月12日、福島原子力発電所から10キロ圏内に避難指示。10キロとはどこなのか? わからない。浪江町に住む妹から連絡、町長に逃げろと言われて避難を始めたとのこと。
 15時36分、1号機が水素爆発。20キロ圏内へ避難指示。20キロとはどこなのか? パソコンのサイトで我が家が25キロ圏内にあると知る。ではどうなるのか? 逃げる? 避難しろと言われても? 何も情報が入らない。そもそも何から逃げるのかがわからない…
 とりあえず避難。西へ向かう県道12号線しかないので大渋滞だった。

 3月13日、川俣町「道の駅」で朝を迎える。子どもたちを、別れた夫がいる埼玉へ逃がすことにする。前夫に連絡をとり迎えに来てもらう。長男は避難せずに同行、南相馬へ戻る。この間、放射線量の高い地域を何度も走り回った。私たちは何も知らされていなかった。同僚から連絡、老人ホームでは職員が徐々にいなくなり、老人約200人が取り残されているとのこと。

 3月14日、老人ホームへ出勤。午前11時頃に爆発音を聞く。11時03分、全国放送のニュースで3号機水素爆発を知る。すでに放射性物質による汚染が広まっていたが、知らされずわからなかった。
 高齢の男性から「家への連絡がとれないので、電話をかけてくれ」と頼まれる。調べてみると、津波に流されていた地域だった。「電話がかからない」と告げたが、あの声は忘れられない。またある高齢の女性は、津波のニュース映像を見ながら表情をなくしていった。急激に痴呆化が進むのをはじめて見た。
 若い職員たちが泣きながら老人ホームを去っていく。所長から「あなたはパートなので、もう帰っていい」と言われる。ほっとした反面、罪悪感に苛まれる。
 自宅に帰ると、長男が泣きながら「ここで死ぬの?」と言う。ふたたび長男と共に避難を決意、県道12号線を西へ。コンビニの駐車場で休憩していると、空席のある大型バスや警察のバスが西へ何台も走り去っていった。ある人が「俺たちを乗せてくれ」と叫んでも無視された。これまで「原発があることは誉れ」と言われてきたのは何だったのか。はじめて政府や東電を恨んだ。「棄民」という言葉を思い浮かべた。
様々な情報が飛び交うが、本当に必要なものは自分自身でつかむしかなかった。危険、安全、の選択しかなく思い悩む。何が正しいのかわからない…

 埼玉へ避難すると、4歳の長男が壊れていた。何もしゃべらない。「福島から来た子と遊んではいけない」と周囲の大人たちが言っている。「お家に帰りたい」 南相馬へ戻ることを決意した。

 自分と子どもの26年後を知るために、2012年2月にチェルノブイリ原発を訪れる。

 2020年より、東日本大震災災害伝承館で語り部を始める。
 語り部は決して楽な役割ではない。自分の恥ずべき事を赤裸々に語る。辛い、苦しい。けれど伝えなければ忘却の彼方へとされる。語り部とは傷をつけ、残し、自分と向き合う作業である。
 「伝承館」には何の教訓もない。何も終わっていないのに、何が復興だ。また「伝承館」では高校生の語り部を育てようとしている。大人が大人の責任を果たしていないのに、なぜ高校生に語らせるのか。

 以上の話を、家族や周辺の人たちに話してほしい。それが語り部である。

 この後、鹿目久美さんとの対談と質疑応答がありました。彼女は原発圏内60キロの大玉村から避難して、娘と二人で神奈川県相模原市に住んでいるそうです。

 そして最後に高村さんはこう話されました。

 復旧などできてはいない。国や県の言う"心の復興"などあり得ない。前の姿に戻ってこそ復旧。更地に新しい家々が建ち、移住者が住む。これは復旧ではない。

 チェルノブイリでは、放射線の測定、健康診断、ホールボディカウンターによる内部被曝検査を、当たり前のこととして継続的に行なっている。農地もしっかりと放射線を測定して、その濃淡にあわせて作物を植えている。
 日本では支援を打ち切り。まるで放射能汚染などなかったかのようだ。

 以下、私の感想です。
 約一時間、高村さんの壮絶な体験談を固唾を呑んで聴き入りました。まず避難計画の恐ろしいほどの杜撰さにあらためて驚きました。何が起きているのかも、何が危険なのかも、そこが原発圏内何キロに当たるのかも、どこへどうやって避難すればいいのかも、住民に伝えていない。過酷事故は起きない、起きたら自己責任で何とかしろ、これはまさしく「棄民」です。
 そして子どもや家族の命を守るために、情報がほぼ皆無のなかで必死で避難する被災者の方々。その過程において様々な選択をするなかで犯してしまった過誤、それに対する後悔にいま苛まれる日々。高村さんが時々見せる苦悶の表情にそれが垣間見え、言葉もありませんでした。
 さらに自分たちを騙して見捨てた政府や東電への怒りと不信感。同時に自分自身への怒りも強く感じました。鹿目さんが、「私は被害者であり、加害者でもある」という言葉が心に残ります。原子力発電所に対して何の疑問ももたずに許容し、子どもたちの命を脅かしてしまった自分への怒り。

 原発は、棄民を前提として稼働されるものであることを強く肝に銘じたいと思います。そして樋口英明氏が言われたように、地震の予測はできない→日本のどこでも大地震は起こり得る→原発の耐震性は脆弱である→原発事故は凄まじい被害をもたらすということも。パーフェクトに危険な存在である原発を、絶体になくさないといけない。そのことを痛感させてくれた講演会でした。

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by sabasaba13 | 2024-03-04 07:56 | 講演会 | Comments(0)
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