失敗の研究

失敗の研究_c0051620_13585639.jpg戦争が廊下の奥に立つてゐた  渡辺白泉

 以前、拙ブログでも書いたように、戦争が廊下の奥に立っているどころか、もう居間のノブに手をかけているのかもしれません。いつ日本が戦争に巻き込まれても、あるいは進んで開戦をしてもおかしくない緊迫した状況です。今日か、明日か、はたまた一週間後か。
 どうしたら戦争を食い止めることができるのか。切実に、本当に切実に、みんなで考えなければなりません。そして、それをテーマにした「青年劇場」の劇「失敗の研究-ノモンハン1939」(作:古川健 演出:鵜山仁)が上演されることを知りました。購入したパンフレットに掲載されていた挨拶とあらすじを引用します。

 本日は、劇団創立60周年記念公演・第133回公演「失敗の研究-ノモンハン1939」にご来場いただきまして誠にありがとうございます。
 この作品は2022年5月に上演した「眞理の勇氣-戸坂潤と唯物論研究会」で好評をいただいた劇団チョコレートケーキの古川健さんと劇団文学座の鵜山仁さんのお二人を迎えての第二弾となります。
 2022年2月にロシアのウクライナ侵攻が始まってから三年目に入ったにもかかわらず、いっこうに終戦はおろか停戦の声すら聞こえてきません。そして2023年10月のハマスのイスラエル攻撃に端を発したイスラエルによるガザへの報復攻撃もまた、今日に至るまで止むことを知らず、この戦闘でのガザ市民の死者数はすでに4万人を超えています。また、ウクライナでの戦闘では両軍合わせて10万人、さらに1万人を超える民間人が亡くなっていると言われています。テレビ等を通じて、毎日のように報道される映像を見ながら何もできないもどかしさに駆られている方も多いかと思います。その映像の背景にはそこで語られることのない一人ひとりの人生があり、家族があり、仲間がいます。その想像力をどう持ち続けることができるのか。
 「どうしたら戦争を終わらせることができるのか。」
 この問いかけを私たち自身に向けられたものとして受け取らなければと、感じています。
 この舞台を通じて皆様とともに考え合う機会、話し合う機会が生まれることを切に願っています。
 では最後までごゆっくりお楽しみください。
 秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

 1970年のとある出版社。
 まだまだ女性編集者の少ない職場で将来を期待された沢田利枝は、次年度に向けた長期連載企画として「ノモンハン事件」を提案する。編集部からは「過去の事件よりも今のベトナムだろう」と反対されるものの、大物小説家・馬場の発案であることを伝えると反応は一転。無事に企画を進めることになった沢田は、先輩の後藤とともに当時を知る証言者たちへ取材を重ねていく。
 「どうしてこの戦争を止めることが出来なかったのか」
 沢田の疑問は膨らんでいくが、そんな折、突然馬場が執筆を断念すると言い出す。到底あきらめきれないと訴える沢田に対し、後藤は一策を講じる…。

 今だからこそ観たい、観なければならない劇だと思います。先日、山ノ神を誘って、新宿にある「紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA」に観劇に行ってきました。

 まず「ノモンハン事件」について、「山川 日本史小辞典 改訂新版」の解説を転記します。

 1939年(昭和14)5月におこった満州国とモンゴル人民共和国の国境地点における、日本軍とモンゴル・ソ連両軍との大規模な衝突事件。満・モ両国の境界争いの絶えなかったハルハ川と支流ホルステン川の合流地点ノモンハンで、5月11・12日ハルハ川をこえたモンゴル軍と満州国軍が衝突した。関東軍は事件直前の4月25日、国境紛争には断固とした方針で臨むとの満ソ国境紛争処理要綱を下令。現地に急派された第23師団はモンゴル軍を駆逐してモンゴルの空軍基地の爆撃を行ったが、ソ連軍の優勢な機械化部隊の前に敗退し、8月20日のソ連軍反攻により敗北。独ソ不可侵条約による国際情勢の急転をうけて、9月15日、モロトフ外相と東郷茂徳(しげのり)駐ソ大使の間で停戦協定が成立した。

 それでは始まり始まり。冒頭、イスラエルによるガザ市民虐殺に抗議するプラカードを掲げて佇む沢田利枝(藤井美恵子)。ライターとして活躍する彼女のところに、女性記者・渡邊美香(岡本有紀)が取材にやってきて、沢田がライターとなった出発点について訊ねます。それは25年前に書いた一本の記事だったと回想が始まります…

 時は1970年、ベトナム戦争の激化とそれに反対する運動が活発であった時代。なおこの時代のヒット曲「500マイル」「ウィー・シャル・オーバーカム」「風に吹かれて」「翼をください」「悲しくてやりきれない」「友よ」などが随所で流されるので、甘ずっぱいものがこみ上げてきました。ある出版社で経理から編集に抜擢された若き日の沢田利枝(岡本有紀)が、先輩記者の後藤稔(矢野貴大)とペアを組んで、歴史小説家・馬場貫太郎(吉村直)が新作を書くための取材に協力することになりました。なお彼のモデルは司馬遼太郎ですね。「戦車乗りだった」という会話からも明らかです。余談ですが、司馬は栃木県佐野市に駐屯していた戦車部隊に所属しており、本土決戦では、相模湾などに上陸してきた敵軍を撃退すべく南下する方針でした。「東京方面からの避難民とかち合い、混雑するかもしれない。その時、どうしたらいいのか」。司馬にそう問われた「大本営の人」は「轢(ひ)っ殺してゆけ」と言い放ったそうです。この劇のテーマともからむ逸話ですね。
 さて三人は、ノモンハン事件に参加した兵士や将校たちに取材をしていきますが、馬場はだんだんとこの戦争に疑問をもちはじめます。辻政信という作戦参謀の独断と暴走により引き起こされ、何もない茫漠とした大草原を奪うために、多くの兵士を犠牲とし、しかも誰も責任を取らなかった戦争。その愚劣さに幻滅した馬場は、執筆を断念します。
 しかしどうしても納得ができない沢田は、後藤の協力のもと、自分の記事としてノモンハン事件について書くことになります。取材をさらに進める沢田は、関係からさまざまな証言や意見や分析を得ていきます。

 陸軍では、景気の良い話を好み、積極的に攻撃に出る作戦をたてたがる人が愛される。

 私は正直に言って、辻参謀より、それを受け入れて好きにさせてしまう周りの方が恐ろしいと思います。

 敵を過小評価し、己を過大評価する。

 軍部とまともにやり合う政治家はほとんどいなくなった。新聞は売り上げの為に、景気の良い言説を好み、米英を敵視する世論を形成する重要な役割を果たしてしまった。…更に、それらに乗っかり、戦争に対する危惧を忘れた一般の国民はどうだろう?

 そして沢田は、ノモンハン事件は辻政信個人の責任だけではなく、関東軍や参謀本部といった組織の問題、日本という国のあり方の問題だと気づいていきます。そしてそれらの問題は敗戦によっても解消されてはおらず、戦後の日本の組織や国のあり方にも巣食っているということにも。
 同時進行で、当時の女性が置かれていた立場やハンディキャップについても描かれます。ほとんどが男性のみの編集部、「女の視点で」と強調し、「女のくせに」と卑下する男性記者たち。これもいまだに解消されていない問題点ですね。
 そして女性社員たちが立ち上がり、彼女を応援する会を結成し、そこに招かれた沢田が講演を行うラスト・シーンが心に残りました。どうすれば戦争を止められるのか、彼女なりの結論です。

 同じ失敗をしない為にはどうしたらいいか? 前の失敗について考え抜くことだと思います。私にとってノモンハンの意義はそこにあります。

 ほんとうにいろいろなことを考えさせられる劇でした。戦前の日本はどのような失敗をしたのか、その原因は何なのか。そして戦後の日本も、今の日本も同じ失敗を繰り返してはいないだろうか。
 それについて考える際のヒントになる一文を、村上春樹氏が書かれています。氏は『ねじまき鳥クロニクル』(新潮文庫)の中で、ノモンハン事件について取り上げています。その時の取材や考察をもとに書かれた文章で、『辺境・近境』(新潮文庫)に収録されています。

 それ(※ノモンハン事件)は期間にして四カ月弱の局地戦であり、今風に言うならば「限定戦争」であった。にもかかわらずそれは、日本人の非近代化を引きずった戦争観=世界観が、ソビエト(あるいは非アジア)という新しい組み替えを受けた戦争観=世界観に完膚なきまでに撃破され蹂躙された最初の体験であった。しかし残念なことに、軍指導者はそこからほとんどなにひとつとして教訓を学びとらなかったし、当然のことながらそれとまったく同じパターンが、今度は圧倒的な規模で南方の戦線で繰り返されることになった。ノモンハンで命を落とした日本軍の兵士は二万足らずだったが、太平洋戦争では実に二百万を越す戦闘員が戦死することになった。そしていちばん重要なことは、ノモンハンにおいても、ニューギニアにおいても、兵士たちの多くは同じようにほとんど意味を持たない死に方をしたということだった。彼らは密閉された組織の中で、名もなき消耗品として、きわめて効率悪く殺されていったのだ。そしてこの「効率の悪さ」を、あるいは非合理性というものを、我々はアジア性と呼ぶことができるかもしれない。
 戦争の終わったあとで、日本人は戦争というものを憎み、平和を(もっと正確にいえば平和であることを)愛するようになった。我々は日本という国家を結局は破局に導いたその効率の悪さを、前近代的なものとして打破しようと努めてきた。自分の内なるものとしての非効率性の責任を追及するのではなく、それを外部から力ずくで押しつけられたものとして扱い、外科手術でもするみたいに単純に物理的に排除した。その結果我々はたしかに近代市民社会の理念に基づいた効率の良い世界に住むようになったし、その効率の良さは社会に圧倒的な繁栄をもたらした。
 にもかかわらず、やはり今でも多くの社会的局面において、我々が名もなき消耗品として静かに平和的に抹殺されつつあるのではないかという漠然とした疑念から、僕は(あるいは多くの人々は)なかなか逃げ切ることができないでいる。僕らは日本という平和な「民主国家」の中で、人間としての基本的な権利を保証されて生きているのだと信じている。でもそうなのだろうか? 表面を一皮向けば、そこにはやはり以前と同じような密閉された国家組織なり理念なりが脈々と息づいているのではあるまいか。僕がノモンハン戦争に関する多くの書物を読みながらずっと感じ続けていたのは、そのような恐怖であったかもしれない。この五十五年前の小さな戦争から、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか。僕らの抱えているある種のきつい密閉性はまたいつかその過剰な圧力を、どこかに向けて激しい勢いで噴き出すのではあるまいか、と。(p.167~9)

 意味を持たない死、名もなき消耗品。私なりに言い換えれば、すべての人間の命や権利や尊厳を大切にしないということ、それが失敗の本質だと考えます。違う言い方をすれば、差別を許容し、人権を侵害し、平然と棄民を行う社会やシステム。そして人命軽視・人権侵害・差別を行う権力や組織がないかどうかを常に監視し、行っているのであれば抗議の声をあげる。さらに、己のうちに、それらを許容し等閑視するメンタリティがないのかを常に自問する。
 とりあえず目指すべきは、包括的な差別禁止法の制定と実効的な国内人権救済機関の設立ですね。そしてそれに取り組もうとしない政権に退場してもらう。

 劇中に印象的な台詞がありました。沢田が取材した元将校・吉田賢(杉本光弘)は、ノモンハン事件の真相を知るために戦後ずっと探求を行い、膨大な資料を作成しています。その資料を沢田に提供する条件をこう提示します。

 もしソ連で情報公開が行なわれたら、ソ連側の死傷者について教えてほしい。そして当時、ノモンハンで暮らしていた人々についても教えてほしい。

 眼から鱗が落ちました。おそらくノモンハンは無人地帯ではなく、そこで暮らしていた人々、その土地を必要としていた人々がいたはずです。その人たちも戦争の犠牲者・被害者なのですね。
 すべての人間の命と尊厳と権利を大切にする。ガザや、ウクライナや、ミャンマーや、多くの紛争地域で暮らす人々に思いを馳せましょう。

 "背広を着た関東軍"が戦争を画策している今だからこそ、多くの方に観てもらいたい劇です。

 追記その一。「言葉を蔑ろにしない」ということも、過去の失敗から学ぶべき点ですね。元将校・吉田賢(杉本光弘)の台詞です。

 ノモンハンは事件じゃない。あれはれっきとした戦争だ。

 惨敗という事実を隠蔽するために「事件」というソフトな言葉を使っているのでしょう。騙されないようにしなければ。「台湾有事」ではなくて「台湾戦争」でしょ。

 追記その二。『蚤と爆弾』(吉村昭 文春文庫)を呼んでいたら、下記の記述がありました。関東防疫給水部、いわゆる731部隊も、ノモンハン事件と深く関わっていたのですね。

 その後約十カ月ほどたった昭和14年5月12日には、外蒙と満州の国境のノモンハンで外蒙軍と満州国軍との間で戦闘が発生し、ソ連軍と日本軍の全面的な衝突となった。
 装備と兵力にまさるソ連・外蒙連合軍の攻撃はすさまじく、日本軍は徐々に劣勢に立たされた。それは独断的に行動する関東軍と陸軍中枢部との意見の疎通を欠いたからでもあって、やがて日・ソ両国の間で停戦協定がむすばれ、戦火はやんだ。
 曾根(※石井四郎)の指揮する関東軍防疫給水部は、ノモンハン事件に出動して活撥に行動した。戦闘のおこなわれた地区一帯は良好な飲料水がとぼしかったが、防疫給水部は無菌濾水機を駆使して飲料水の確保につとめ、その目ざましい功績をみとめられて感状を授与された。
 ノモンハン事件は、日本陸軍に痛烈な打撃をあたえた。中国大陸に大兵力を投入していた関東軍の戦力には往年の強大さはなく、それと対照的に極東ソ連軍は、装備、兵力ともに増強され両軍の戦力の差はあきらかだった。
 日本陸軍は、その戦力の差をおぎなうためにも曾根が研究をすすめている細菌使用の戦法を一層重視し、一日も早く実戦に利用できるように督促した。(p.32~3)

by sabasaba13 | 2024-09-23 07:00 | 演劇・落語 | Comments(0)
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