谷中七福神編(2):上野公園(06.1)

 まずは両大師堂にある黒門を見学。彰義隊を中心に旧幕府武士が明治新政府に対して徹底抗戦した上野戦争の弾痕が生々しく残る当時の門は南千住円通寺に移築されており、これは1964年に復元された門だということです。門扉に数ヶ所残る弾痕は当時のものなのでしょうか。なおこれを鎮圧した、新政府軍司令官が大村益次郎ですね。
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 科学博物館の前に行くと、バスガイドのみなさんが熱心に研修をしておりました。野口英世の銅像に挨拶をして、国際こども図書館へ。
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 日本初の国会図書館としてつくられた、堂々とした風格ある煉瓦建築です(1906年築)。法務省や慶應大学図書館とならぶ、都内でも屈指の近代建築ですね、一見の価値あり。その前には、土井晩翠が長男の遺志をくんでつくった小泉八雲の記念碑があります。隣りは黒田清輝記念館。
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 そしてここの交差点にあるのが、旧京成博物館動物園駅の駅舎です。現在は使用されていないのですが、たいへん凝った意匠のギリシア神殿風建築です。よかった、取り壊されていなかった。周囲の景観を配慮したデザインだと思いますが、ぜひ保存し続けてほしいな。日本初の音楽ホール奏楽堂の前を通り過ぎると「文晁碑」がありました。揮毫は徳川家達で、側面の碑文が削り取られています。何か謂れがありそうですね。
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 上野公園生みの親ボードワン博士像・小松宮像・グラント将軍夫妻植樹碑を拝見して、お化け灯篭へ。1631年に佐久間大膳が寄進した、高さ7mの巨大灯篭です。同型のものを南禅寺・熱田神宮にも寄進したそうです、昨年両所に行ってきたのですが気づきませんでした。
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 さて空腹となったので、精養軒で昼食をとろうかと思い立ち寄ったところ、長蛇の列です。やめやめ、我慢して谷中あたりで昼飯としましょう。すぐ近くの大仏山パゴダには、かつてここにあったが焼失した大仏の顔面部分のみが飾られています。芭蕉が「花の雲鐘は上野か浅草か」と歌った時の鐘を見上げながら、清水観音堂へ。途中で最近つくられたらしい「時忘れじの塔」がありました。碑文には、関東大震災や東京大空襲といった悲しい出来事を思い起こしてもらいたいとありますが、天災と人災を一緒くたにしないでほしい。
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 人形供養で有名な清水観音堂を拝見して、少し先に行くと彰義隊士の墓碑があります。新政府をはばかって、正面には「戦死之墓」としか刻まれていません(揮毫は山岡鉄舟)。なおその遺体は見せしめのため長期間放置され、それを憐れんだ円通寺住仏摩により同寺に葬られたそうです。函館にある碧血碑を見た時も感じたのですが、敵や敗者に対する新政府の冷酷さを見るにつけ、靖国の精神につながっていますね。かつては、敗者を御霊として手厚く祀り、あるいは戦さが終わると敵味方区別なく弔うという伝統もあったはずなのですが、近現代の日本政府はここから逸脱しています。供えられたわずかの花と十数枚の一円玉が悲しい。置かれた立場は似ているのに、新撰組に人気が集中するのは不思議です。その墓碑に尻を向けて屹立する西郷隆盛像をひさびさに拝見。
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 ふと気づくとその脇に昭和天皇が皇太子の時に、この高台から大震災の被害状況を展望したという記念碑がありました。国見ですかね。階段を不忍池へと降り、いよいよ谷中七福神めぐりの開始です。
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 本日の一枚は、彰義隊士の墓碑です。
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by sabasaba13 | 2006-01-11 06:17 | 東京 | Comments(0)
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