それでは展示の解説を抜粋して、四日市ぜんそくの歴史を紹介します。
第一(塩浜)コンビナートの建設
戦後、石油産業はGHQにより厳しく統制されましたが、国際情勢の変化を受け占領政策は大きく変更され、統制が緩和・廃止されました。
占領が終了すると、国は1955(昭和30)年に四日市などの旧軍燃料廠跡地の払い下げを決定しました。
国の石油化学工業育成政策を受けて、旧第二海軍燃料廠の跡地には第一(塩浜)コンビナートが建設され、1959(昭和34)年に本格稼働をはじめました。
公害の発生
沿岸部では昭和初期より工場排水に伴う漁業被害がありましたが、1959(昭和34)年に第一(塩浜)コンビナートが本格的稼働をはじめると、異臭魚などの漁業被害の範囲が広がりました。
同時期、悪臭・ばいじん・騒音などの苦情が市に寄せられるようになり、さらに亜硫酸ガス(二酸化硫黄)を主な原因とする深刻な健康被害が発生しました。
亜硫酸ガスによる大気汚染
1960(昭和35)年、塩浜地区連合自治会は市に対して「工業地帯からの騒音とガスで夜もおちおち眠れない」と善処を求める陳情をしました。これが大気汚染に対する最初の住民の動きでした。
その後の調査で、大気中に多量の亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が含まれ、特に塩浜地区の濃度が高く、その周辺から北西部の広範な地域に大気汚染の影響が及んでいることが分かりました。
磯津での高濃度汚染
四日市では冬季に北西の季節風が強く吹きます。このため第一(塩浜)コンビナートと鈴鹿川を隔てて風下に位置する磯津では、強風時に発生するダウンドラフト現象によって、コンビナート工場群の低い煙突からのばい煙の影響を強く受け、高い濃度の亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が測定されました。
一方、夏季には主に弱い南東の風が吹き、コンビナート北西部の広範な地域にばい煙の影響が及びました。
呼吸器系疾患の広がり
大気汚染が激しくなっていく中で、1961(昭和36)年の夏ごろから、磯津の中山医院に来院するぜん息などの呼吸器系疾患の患者が増えはじめました。
翌年、塩浜地区の連合自治会が行った「公害病調査」では、全調査対象人口2,649人のうち、ぜん息などの呼吸器系疾患の患者数が約1割の261人に達していることがわかりました。
患者の苦しみ
重度のぜん息発作は、呼吸が困難になり生命の危機にさらされることがあります。発作は夜間に起こることが多く、発作のないときは健康な人と変わらない様子のため、病気への理解をえることができない場合がありました。また、患者や家族は病気だけではなく、生活や学業にも支障があり、これらのことにも苦しみました。
患者の一人は、その症状を「ベッドに寝ておるうちは、まだ軽いほうで、もうすべり落ちて、もう苦しみ、のたうちまわる状態」と表現しました。

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