伊勢志摩編(10):四日市(18.9)

 興味深いのは、石油化学コンビナートを礼賛する学校の校歌が、公害の劇化にともなって変更された事例ですね。塩浜小学校と四日市南高校の事例が紹介されていました。

塩浜小学校
【旧校歌】
 港のほとり 並びたつ
 科学の誇る 工場は
 平和を護る 日本の
 希望の 希望の 光です
 塩浜っ小(こ)  塩浜っ小(こ) 僕達は
 明日の日本 築きます

【新校歌】
 南の国から 北の国
 港出ていく あの船は
 世界をつなぐ 日本の
 希望の 希望の しるしです
 塩浜っ小(こ)  塩浜っ小(こ) 僕達は
 明日の日本 築きます


四日市南高校 「南高 同窓会会報 第35号」 2004(平成16)年7月10日
 母校、南高は昭和三十四年四月に開校した。一期生として入学した我々は、富州原の仮校舎でスタートした。校章も仮、高橋先生作詞、二五先生作曲の仮の校歌、運動場や体育館はもちろん借りものと、仮と借りで肩身の狭い思いをしたものである。
 しかし、翌年には新校舎が完成、正式な校章も出来上がり、順次高等学校としての全容が整っていった。
 そして昭和三十八年、念願の校歌が制定された。作詞は当時新進の詩人・谷川俊太郎、作曲は同じく新進の音楽家・武満徹であった。谷川三十二歳、武満三十三歳のコンビで、斬新な「校歌らしくない校歌」が誕生した。

 登城が丘の草の上
 ひたむきに若さを生きる
 歌声の海へ広がる
 この丘にわれらはまなぶ
 喜びも悩みも共に

 なんとも情感が広がる詩である。私はまったく在校生時代に歌っていないが、同窓会長をお引き受けしているお陰で、年に一度の総会で校歌を全員で歌う機会があり、楽しく歌わせてもらっている。
 しかし、校歌の三番の「炎を上げるスタッグが」が、「心にひめた問いかけは」に、また最後の「新しい力を持って」の「力」が「答」に変わったことを知っているのは、卒業生の中でも少ない。
 校歌改訂は歴代校長の申し送り事項であったようであるが、創立二十周年を機に、当時の赤嶺校長先生が谷川氏に依頼して改められたのである。
 校歌が制定された時代は日本経済が高度成長にむかって歩み始めた頃で、四日市も時代を担う新しい産業としてコンビナートの操業が本格的に開始された。ところが明るい未来の象徴だったはずの「炎を上げるスタッグ」が公害・四日市ぜんそくのシンボルとなったのである。
 谷川氏は後に「当時の私の意識のなかで、炎を上げるスタッグはいわば新しい山水に化していた。私は知らず知らずのうちに、学校を国家隷属させる手助けをしていたといえるだろう。その点で、私は「大御代」を歌った明治の大学教授と変わるところはなかった」と述べている。
 また「力」が「答」に変わったのも、力で物事を制する時代ではないとの思いが、谷川氏にあったのであろう。中庭にある校歌の碑は、創立二十周年を記念して同窓会が寄付したものです。
 私の母校自慢は校歌である。谷川俊太郎作詞、武満徹作曲と言うと、まず人はびっくりする。卒業生も在校生も、もっと誇りに感じてほしいと私はおもっている。そして、この改訂の意味を知って歌えば、校歌に対する想いも増してくるのではないだろうか。

 かつて小学生がつくった標語「原子力 明るい未来のエネルギー」という看板が、福島県双葉町から撤去されたことを想起しました。科学技術の進歩には、常に批判的な眼を持つことが必要だと痛感します。
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 追記です。谷川俊太郎さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

by sabasaba13 | 2024-11-23 06:39 | 近畿 | Comments(0)
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