伊勢志摩編(11):四日市(18.9)

 また四日市における公害は大気汚染だけではなく、海洋汚染もともなっていたことを忘れてはいけません。展示の解説から転記します。

酸性廃液流出事件
 1968(昭和43)年、四日市海上保安部に赴任した田尻宗昭氏は、密漁取り締まりを通じ、公害によって漁場を奪われた漁民の苦境を知りました。
 翌年、四日市海上保安部は日本アエロジル株式会社四日市工場が塩酸を含んだ工場排水を四日市港へ放出していたことや、石原産業株式会社四日市工場が廃硫酸を垂れ流していたことを「港則法」違反などで摘発しました。

 これについての経緯は、田尻宗昭氏が著した『四日市 死の海と戦う』(岩波新書)に詳しく述べられています。これは名著です、お薦め。
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 というわけでたいへん充実した資料館で勉強になりました。しかし万全の対策をとった結果、現在の四日市には公害は存在しないという印象を受けます。はたしてそうなのでしょうか。事前学習として読んだ『慟哭の日本戦後史 ある報道写真家の六十年』(樋口健二 こぶし書房)に下記の文章がありました。

 さて、四日市公害は裁判で決着したはずであったが、実情はさらに深刻化していた。
 2006年に、拙著『はじまりの場所-日本の沸点』(こぶし書房 2006年)の取材であらためて四日市をおとずれた。
 裁判勝訴以後、だれしも四日市に青空がもどったと思いこんでいた。確かに勝訴で国や県が排煙基準を厳しく規制して工場に守らせた関係上、二酸化硫黄は心配のないところまで減少した。ところが二酸化窒素は1972年と変わっていなかった。また地球温暖化の二酸化炭素は多量に排出されていた。250メートルの煙突から広域に水蒸気にまじった有毒ガスが排出されていたのだ。
 そればかりか、裁判勝利の立て役者となった吉田克己(元三重大学教授)と前田辰男(元社会党市議)両氏は、やがて行政側の公害対策審議会会長と副会長の座に就くや、「公害認定制度の廃止」や「公害指定地域解除」にむけた動きを強め、1986年には何と「環境保全功労者」として二人に環境庁長官賞が贈られた。前川氏にあらためてこのことをただすと、「政府に弓を引いたわけだからもらえるとは思わなかった」と苦笑した。公害裁判を担った中心人物たちの変節は、国や企業にとっては表彰に値したのだろう。
 一方、海洋汚染を引き起こした石原産業四日市工場は、一日に20万トンの濃硫酸を中和処理しないまま長期にわたり四日市港へ垂れ流し、四日市海上保安部に摘発され、10年にわたる刑事裁判の結果、有罪となったが、わずか8万円の罰金ですんでしまった。
 原告もすでに七人が亡くなり、当時一番歳の若かった野田一之さんに34年ぶりに再会した。。野田さんは「あんたは夜中に写真を撮っていた。早死にするぜと話していたんだ」となつかしがってくれた。「水俣病はチッソという一会社だが、四日市は戦争とその後の貧困から立ち直るために経済成長を進め豊かになった。国のために市民が犠牲になったケースだな。公害は仕方なかったという人が増えて来た。四日市から公害がなくなった、克服したとさかんに言うが、わしはそう思わん」と彼は話してくれた。
 半世紀にわたって「四日市公害を記録する会」の代表をつとめた澤井余志郎さん(2015年に死去)は、「四日市公害を一口で言えば、臭い魚、四日市ゼンソク、自然環境破壊の三つです。死者も多いですが小学生三人、中学生一人、自殺者五人。一人のおばあさんは発作が苦しかったんでしょう。自分の家の庭で焼身自殺でした」と話してくれた。
 澤井さんは、公害裁判の後の「変節」にも厳しい目を向けていた。「1975年4月に市議選で前川氏がかえり咲き、四日市公害審議会会長となりましたが、副会長に吉田氏が名を連ね、二人は公害をなくすのではなく、公害があったことを「なくしてゆく」役割を担ったわけです」。
 「マイナスイメージを徹底して払拭した功績がたたえられ、1995年に国連環境計画の「グローバル500賞」を加藤寛嗣市長個人(三菱グループ出身)と四日市市が受賞しました。前年の同賞は水俣病研究の原田正純さんでしたから、あまりの落差に驚きましたよ。加藤市政の20年間をひたすら支えたのが前川、吉田両氏でしたから、驚きはなおさらでした」と苦笑した。
 四日市を再取材して、裏切りと忘却に翻弄された四日市の40年間が浮かび上がってきた。患者たちが強いられた無残と無念を思い、私は唇をかみしめた。
 本質は何も変わっていなかったのだ。(p.65~8)

 うーん、言葉もありません。「裏切りと忘却に翻弄された四日市の40年間」「本質は何も変わっていなかった」という言葉を重く受け止め忘れないようにしましょう。
 さて四日市公害、いや日本における公害の"本質"とは何か。一言でいえば、弱者・少数派を犠牲にして企業が利益を得、それを国家が擁護するというシステムではないでしょうか。そしてそのシステムはいまだに維持されているし、これからも続いていくでしょう。私たちがNO!と言わない限りは…
 参考となる論評を紹介します。

『近代日本一五〇年 -科学技術総力戦体制の破綻』 (山本義隆 岩波新書1695)

 歴史書には「慢性的な輸入超過により巨額の貿易赤字を抱えているなかで、輸出総額の5%を占める産銅業は重要な外貨獲得産業であり、日本最大の産出量を誇る足尾銅山に対して操業停止措置はとられなかった」とある。
 1905(M38)年1月23日、農商務省鉱山局長・田中隆三は衆議院鉱業法案委員会で「鉱業と云ふものは、其国家の一つの公益事業と認めている、随って其事業の結果として、他の人が多少の迷惑を受けるということは仕方がない」と明言している。そして1907年、鉱毒沈殿と渡良瀬川の洪水調節のためという触れ込みで計画された遊水池の予定地となった谷中村は、村民の反対にもかかわらず滅亡させられた。官民挙げての「国益」追及のためには、少数者の犠牲はやむをえないというこの論理は、その後、今日にいたるまで、水俣で、三里塚で、沖縄で、そして日本各地で、幾度もくり返され、弱者の犠牲を生み出してきたのである。(p.87~8)

『四大公害病 水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市公害』 (政野淳子 中公新書2237)

 四日市公害では最終的に64人が、空気を吸うという最低限の権利が侵されて亡くなった。
 その罪はいまだに誰によっても贖われてはおらず、豊かさはその犠牲の上に築かれているようにもみえる。(p.217~8)

 四つの公害裁判のすべてにおいて違法判決が出たあとも、この国においては公害が企業犯罪であるとの認識は希薄である。それは、東京電力の福島第一発電所事故でも共通している。
 東電事故は、2011年3月11日に発生した東日本大震災で外部からの送電が不能になり、津波で非常用発電機が破壊され、原子炉を冷却するための海水取水ポンプなどが破壊されたことが、その一因である。運転中だった一号機、三号機はそれぞれ12日と14日に炉心溶融に続く水素爆発をし、二号機は15日に原子炉の圧力を下げるために放射性物質を大量放出させた。同日、定期点検中だった四号機も水素爆発をした。
 これに対し、国会が2011年12月に設置した「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」は調査結果を12年7月5日に提出した。福島第一原発は地震以前から、「地震にも津波にも耐えられる保証がない、脆弱な状態」にあり、「大量の放射能の放出が考えられる場合の住民の安全保護など〔中略〕東京電力や原子力推進行政当局である経済産業省が当然備えておくべきことを」東電が先延ばしをし、それを規制省が容認していたと指摘した。
 しかし、調査報告から一年を経ても、いかなる捜査機関もなんの法違反での摘発もしていない。四大公害で、被害者が提訴して初めて、原因企業の責任が明らかにされていったが、それと似た状況が東電事故でも繰り返されている。(p.235~6)

つきつめて言えば、公害の歴史とは、すなわち公害問題を解決に導こうとする人々がつくった歴史である。地域のリーダー、義憤に駆られる弁護士、住民を思う自治体職員、患者を思う医師や学者、そのどれかが欠けても、被害者の泣き寝入りによってあきらめ、埋もれてしまったかもしれない歴史であった。
他方で、規制権限を持つ国が、加害と被害の関係を明らかにせず、時に結論の先延ばしにより企業活動と経済成長を守った歴史でもある。被害者の側が司法に訴えて法的責任を明らかにすることによって、その誤りを認めさせた歴史でもある。
また、国が被害地域の指定と判断条件などによって、被害と被害者を線引き、つまり認定し、その線引きによる第二の被害を生んだ歴史でもあった。
この被害についても、被害者の側が、健康被害者を診る医師の判断と、行政判断のズレを、司法に訴えて「是正」してきた歴史であり、その努力は続いている。被害の線引きによる限定的な補償の問題は、戦争被害である原爆症の認定からはじまり、東京電力福島第一原子力発電所事故災害につながる課題となっている。
経済発展の推進者であると同時に、環境汚染から国民を守る規制権者でもある国が、後者を優先しなければ、倫理的観点から国民の信頼を失い、長期的な経済損失をも生むことは、公害の歴史から学ぶべき教訓であろう。(p.252~3)

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by sabasaba13 | 2024-11-29 07:51 | 近畿 | Comments(0)
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