『第五福竜丸』

 今日は106年まえに三・一事件が起きた日、そしてビキニ・デーです。米国が南太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で行った水爆実験で、現地の島民や第五福竜丸をはじめとする操業中の漁船員らに甚大な被害を与えたビキニ被災事件から71年となります。

 その犠牲となった第五福竜丸事件については、以前から興味を持っており、東京新木場にある第五福竜丸展示館を訪れたり、ベン・シャーンの絵にアーサー・ビナードが詩をつけた『ここが家だ』を読んだり、この事件をモチーフの一つとした岡本太郎の『明日の神話』を見に行ったり、劇『わが友、第五福竜丸』を観たりと、自分なりに追いかけてきました。そしてこの水爆実験によって、周囲の島々に暮らす人々、多くの漁船や貨物船の乗組員も被曝し、アメリカ政府と日本政府は現在に至るまでその責任をとろうとしていないと、私の蒙を啓いてくれたのが、映画『放射能を浴びたX年後』と、『核の海の証言』という本でした。

 そして勉強不足のため知らなかったのですが、新藤兼人監督によるドキュメンタリー・タッチの『第五福竜丸』という映画があるのですね。杉並女性団体連絡会の主催による無料映画会が杉並区立勤労福祉会館で行われるというので行ってきました。チラシから紹介文を転記します。

平和を願う無料映画会 上映とお話と歌 新藤兼人監督 第五福竜丸
 水爆実験で被爆した第五福竜丸。映画は乗組員の状況、その後の日本の影響を描いた貴重な作品です。第五福竜丸の被爆を機に、杉並区を中心に水爆禁止署名運動が全国に広がり、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開催。翌年1956年に被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が結成され、世界で被爆証言を続け、2014年にノーベル平和賞を受賞しました。

 新藤兼人監督による1959(昭和34)年の作品で、出演は宇野重吉・乙羽信子・小沢栄太郎・千田是也です。会場は大きなホールでしたが、かなりうまっていました。核兵器に関心を持つ方が多いのですね、意を強くしました。
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 映画は、林光の作曲による、八分の六拍子・マドロス調の軽快な曲とともに始まります。大漁への期待ともに第五福竜丸は波を切りながら南へ南へと進んでいきます。この間の漁のようすや、船員たちの日常の暮らしなど、リアリティのある描写でした。
 そして突然の閃光、ふりそそぐ死の灰。水爆実験に遭遇してしまいます。第五福竜丸は、一切連絡をとらずに母港・焼津へと戻ります。後に、「アメリカ軍に傍聴されると何をされるかわからない」という船員の言葉がありました。
 火傷のため顔が黒ずんだ船員たち、焼津市民の一部からは彼らに対する差別と偏見の目がそそがれます。ある父親は、被曝した船員とキスをした娘をなじります。そして検査や治療のために船員たちは東京の病院に移送されますが、久保山愛吉無線長の病状が悪化していきます。彼を演じた宇野重吉の重厚な演技が心に残りました。
 そして映画は、この事件に対するアメリカ政府の冷酷な対応をしっかりと描いています。被曝した船員を検査させろと要求する米国の医師たち。その前にまず見舞と謝罪と補償をするのが筋だろうと、これを拒否する日本の医師には喝采をおくりましょう。彼を演じた千田是也の毅然とした演技も見事でした。
 一方、久保山愛吉の症状は重篤となり、出漁中の漁船からは激励の電文が次々と届きます。第五福竜丸は廃船となり東京に曳航されていきますが、その姿も見送る人びとも寂寥感にあふれます。
 そして原爆症による彼の死。ラジオの臨時ニュースで報じられるほど、全国の人びとに衝撃を与えます。葬儀には駐日アメリカ大使代理が参列して弔辞を読みますが、耳を疑いました。「…こうした犠牲が必要ない世界をつくらねばなりません」 つまり、核兵器が存在する限り犠牲者は必要だという論理ですね。この弔辞が事実かフィクションかは調べてもわかりませんでしたが、この論理にはリアリティがあります。
 映画は「原爆を許すまじ」の大合唱とともに幕を閉じます。

 10分の休憩のあと、都立第五福竜丸展示館学芸員の市田真理氏の講演がありました。私の文責で要約します。
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 本作は、はじめて林光氏と組んだ映画。そのテーマが良いので、林光氏に編曲をしてもらい、ラッキー・ドラゴン・クインテットが演奏した。
 本作品をブルーレイで復刻して展示館が販売している。
 これまでに2000回を超える核実験が行われた。
 放射能は本来見えないが、サンゴに付着することによって可視化された。
 映画では久保山の家を使用。左が乙羽信子、右が久保山すず。
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 久保山は花、とくに薔薇が大好きだった。入院するときに、妻に「花畑をたのむ」と告げた。いつも海の上にいるので、土から生える花がいとおしい。
 新藤監督は制作にあたり丹念な調査を行った。東京に住んでいた大石又七氏と二日間にわたり会って話を聞いた。
「原爆を許すまじ」は静岡大学生による合唱。
 朝日新聞(1959年2月6日夕刊)に下記の記事が掲載された。

 事件を正しく伝えるために、可能な限り関係者に会って話を聞き、そのメモはノート12冊にのぼった。
 第五福竜丸に似た漁船をチャーターして伊豆沖で撮影。第五福竜丸乗組員2人が同乗しマグロ業の作業、光を見た直後の不安など立ち合い再現。
 2、3の主役以外は観客に顔の知られていない新人を起用してナマの感じを強調。焼津市民2000人がエキストラ出演。

 台本には、本作の製作意図がこう記されていた。

 一九五四年三月、二十三名の日本の漁夫がビキニ環礁で遭遇した水爆実験の被災事件は、ヒロシマ、ナガサキに続く日本の三番目の受難であつた。
 映画「第五福竜丸」は、この歴史的事件の真実を、正しく世界につたえ、生命と幸福を愛する人間の本性によびかけるため、勇気と情熱をもつて製作される。

 田中邦衛も出演。本人は大石又七の役だと言っているが疑問である。
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 この水爆実験で992隻が被曝した。
 私たちは「第五福竜丸事件」とは呼ばずに「ビキニ事件」と呼ぶ。他の被曝した漁船やマーシャル諸島の人びとを忘れてはいけない。
 雨からも放射能が検出された。その雨が畑に降り注ぐと食べ物も汚染されてしまう。全国的に不安が広がり、同時多発的に署名運動が始まる。その運動を杉並区の人びとがまとめる。
 1957年に原爆医療法が制定される。しかし、核実験による被曝者や原子力産業における被曝者は含まれない。被害者の線引き、分断、これは日本政府の常套手段である。
 アメリカ人医師は、ABCC(原爆傷害調査委員会)のモートン博士。
 アメリカ政府は200万ドルの見舞金を日本政府に丸投げして事態の鎮静化をはかる。
 第五福竜丸乗組員はひとり200万円を受け取る。大石さんが故郷に帰ると「うまいことやったね」とやっかまれる。いたたまれなくなって東京へ、沈黙を守る。
 ラッセル・アインシュタイン宣言から、今年で70年。ノーベル委員会のヨルゲン・フリードネス会長も触れていた。

 「私たちの前途には-もし私たちが選べば-幸福や知識、知恵の絶え間ない進歩が広がっています。私たちはその代わりに、自分たちの争いを忘れられないからといって、死を選ぶのでしょうか? 私たちは人類の一員として、同じ人類に対して訴えます。あなたが人間であること、それだけを心に留めて、他のことは忘れてください。それができれば、新たな楽園へと向かう道が開かれます。もしそれができなければ、あなたがたの前途にあるのは、全世界的な死の危険です」

 そして最後に、美雲(びうん)氏の歌と菊池麻由氏のピアノで「一本の鉛筆」が演奏されました。この曲は、第1回広島平和音楽祭(1974年8月)で初めて歌われ、第15回同音楽祭(1988年)でも歌われました。
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一本の鉛筆」 作詞:松山善三 作曲:佐藤勝

 あなたに 聞いてもらいたい
 あなたに 読んでもらいたい
 あなたに 歌ってもらいたい
 あなたに 信じてもらいたい
 一本の鉛筆があれば
 私はあなたへの 愛を書く
 一本の鉛筆があれば
 戦争はいやだと 私は書く

 あなたに 愛をおくりたい
 あなたに 夢をおくりたい
 あなたに 春をおくりたい
 あなたに 世界をおくりたい
 一枚のザラ紙が あれば
 私は子供が ほしいと書く
 一枚のザラ紙が あれば
 あなたをかえしてと 私は書く

 一本の鉛筆が あれば
 八月六日の 朝と書く
 一本の鉛筆が あれば
 人間のいのちと 私は書く

 心に染み入る、素晴らしい歌とピアノでした。美雲さん、菊池麻由さん、ありがとうございました。
 なお、この曲に関してウィキペディアから引用します。

 「一本の鉛筆」は、1974年10月1日に発売された美空ひばりのシングルである。
 ひばりが1974年の第1回広島平和音楽祭に出演するにあたって、総合演出を担当していた映画監督・脚本家の松山善三が作詞を、主に映画音楽の作曲に携わった佐藤勝が作曲をそれぞれ手がけた。(略)
 ひばりは父の増吉が召集されて、母の喜美枝がその間辛い思いをしていたのをそばで見て育っており、自身もまた横浜大空襲を体験していたこともあって、戦争嫌いだったという。そのようなこともあってひばりは広島平和音楽祭の出演依頼を快諾したという。
 リハーサルでは冷房付きの控室が用意されており、広島テレビのディレクターがひばりを冷房付きの部屋に誘導したところ、ひばりは「広島の人たちはもっと熱かったはずよね」とつぶやき、ずっと猛暑のステージのかたわらにいたという。ステージの上からは「幼かった私にもあの戦争の恐ろしさを忘れることができません」と観客に語りかけた。
 それから14年が経った1988年、ひばりは第15回の「音楽祭」に2度目の出演を果たした。当時、ひばりは大腿骨骨頭壊死と肝硬変で入退院を繰り返しており、歩くのがやっとの状態で段差を1人で上ることさえ困難な状況だった。ひばりは出番以外の時は音楽祭の楽屋に運び込んだベッドで点滴を打っていた。しかし、観客の前では笑顔を絶やさず、ステージを降りた時には「来てよかった」と語ったという。翌年の1989年6月24日、ひばりは死去した。

 最後に、『核の海の証言 ビキニ事件は終わらない』(山下正寿 新日本出版社)をもとに、この事件で知っておくべきことを私の文責でまとめておきます。

 1954年3月に第五福竜丸事件が世界に報じられると、世界的な反核運動・反米運動が起こることを恐れたアメリカ政府は、何とかしてこの事件を早く幕引きとし、そうした動きを沈静化しようとします。当時アメリカは、濃縮ウランや原子力技術を外交カードとして西側同盟を勢力下におき、軍事ブロックを作ろうとしていました。日本政府も、原子炉や原子力技術をアメリカから得たいがため、翌年1月に「見舞金」200万ドル(7億2000万円)を受け取り、アメリカの法的責任は一切問わないという政治決着がなされました。「日本の原子力発電は、ビキニ事件の被害額と引き替えに出来上がったのも同然で、私たちはそのための人柱にされたのです」と第五福竜丸元乗組員・大石又七氏がおっしゃっていますが、ここにも原発の血塗られた歴史がありました。(p.114) なおこの時に被曝した漁船や貨物船は1000隻を超えると推定されますが、見舞金の一部は第五福竜丸乗組員だけに渡されます。その結果、被災した船員や漁業関係者から怒りや妬みを買い、二重の苦しみを背負うことになりました。これは他の被災船員から孤立させれば、「第五福竜丸事件」として処理でき、それ以上問題は広がらないという日本政府の策略ですね。結局、他の被災船に関する調査は行われず、「被爆者手帳」も支給されず、健康障害と高額の医療費に悩まされ、多くの方がガンで亡くなりました。(p.183) それに先立つ12月、日本政府はマグロ放射能検査中止を閣議決定、その結果マグロ漁船は、ビキニ・エニウェトク環礁近くの危険区域に、核実験期間中であっても進入して操業しはじめました。もちろん日米両政府による警告はありません。多くの漁船員が被曝し、後年にガンで亡くなる方が続出することになります。また汚染マグロは日本の港に水揚げされ、放射能検査を受けることなく食卓にのぼりました。また汚染マグロを一年間冷凍室に保管して、ハム・ソーセージにして販売した大手企業もあったそうです。ガンによる死亡率が近年高くなった気がしますが、関連があるのかもしれません。(p.157~8) また久保山愛吉氏の担当医であった熊取敏之氏は、ビキニ事件が契機となって発足した科学技術庁・放射線医学総合研究所(放医研)に設立二年後の1959年に招かれ、その後所長となりました。この過程で久保山氏の死因について「すべての症状を、放射線被爆による影響だと決めるには、医学的データが足りない」と見解を変化させました。(p.109) 後の1979年、第五福竜丸以外の被災船に関する記事を掲載しようとした朝日新聞西部本社社会部に対して、東京本社からストップがかかりました。その根拠となった「科学的に証明できない」という意見を述べたのも熊取敏之氏です。(p.199~200) 因果関係の立証を妨害するために科学者に利権を与えて操作するというやり口であろうと、私は推測します。

by sabasaba13 | 2025-03-01 08:16 | 映画 | Comments(0)
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