徒歩による観光はさらに続きます。ノルマン王宮を出て、ヴィットリオ・エマヌエーレ大通りを歩いていくと、現地ガイドのYさんが左に見えるのがカテドラーレだと教えてくれました。創建は1184年、さまざまな建築様式が複合していますが、14~15世紀を中心とした度重なる増改築の結果、しいて言えばイスラム色が濃い折衷様式となったそうです。

その先には崩れた建物がありましたが、第二次世界大戦時に連合国軍による空襲で破壊されたものだそうです。

すこし歩くと、カール5世の銅像がありました。

かつてシチリアを支配したスペイン王にして神聖ローマ皇帝ですね。なおカール5世は世界史的に重要な人物です。「世界の歴史25 アジアと欧米世界」(加藤祐三/川北稔 中央公論社)から引用します。
封建時代のヨーロッパでは、各地の領主が強い権力をもっていたので、実際の権力は全体として分散的であった。しかし他方では、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝が、それぞれ聖・俗の持ち分を分かちながら、いずれも、各国の王権の枠をこえて、ヨーロッパ世界全域を「普遍的」に支配する権利をもっていると自負していた。
現実には、グローバルな分業体制としての近代世界システムが成立すると、その経済的余剰の分け前を得るためには、分散的な権力では対応できず、強力な国家機構が必要となった。このため、絶対王政のかたちをとって中央集権をはかる地域が多くなった。しかし、16世紀前半の段階ではなお、いまやアメリカまで拡大された世界システムの全域を、「普遍的」に支配する「帝国」をつくろうとする試みが生き残った。神聖ローマ皇帝カール五世(スペイン王カルロス一世)と、彼と神聖ローマ皇帝の位を争ったフランス王フランソワ一世である。ローマ教皇庁の所在地を押さえることが重要と考えた二人は、「イタリア戦争」を執拗に展開した。
しかし、このイタリア戦争には、ついに勝者がなかった。近代世界システムは、政治的統合をともなわない分業体制としてこそ、効率的に作用しえた。これを政治的に統合し、官僚と軍隊をもちいて支配する―つまり世界帝国にする―などということは、「引き合わない」ことであった。
1559年、それぞれの国の後継者が、イギリス王をまじえてカトー・カンブレジ条約を締結し、世界帝国への夢を捨てたのは、自然なことであった。
1580年、スペインはポルトガルを併合し、「陽の沈むことのない」帝国を形成した。しかしこのときすでに、オランダは独立の寸前にあり、イギリスも、フランスも、スペインの影響下にはなかった。イベリア半島の二国が、「アダムとイブの遺産」を独占した時代は、終わりを告げていた。(p.135)
そう、"世界帝国"を築こうとして夢破れた最後の皇帝です。以後、政治的に統合されていないグローバルな分業体制としての近代世界システムが定着していくことになります。
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