南イタリア編(39):パレルモ(19.8)

朝目覚めてカーテンを開けると、空を染め上げて太陽がのぼっていました。きれいだなあ。今日の天気も良さそうです。
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 7階にあるレストランで朝食。食後にベランダに出ましたが、ここからの眺めも素晴らしい。
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 そして荷物を持ってロビーに集合、バスに乗り込んで空港へと向かいます。さらば、イビス・スタイルズ・パレルモ・プレジデント。
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 昨日の方と交代した日本人現地ガイドのKさんが刑務所だと教えてくれた建物は、とてもそうは見えません。洒落た塀とあいまってまるで貴族の邸宅のようです。
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 その先にあったのは、15世紀に建てられた監視塔だそうです。
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 この間、Kさんがイタリアに関する四方山話をいろいろと教えてくれました。「家の中でも肌が焼けるので、薄暗くても窓は小さいほうがよい」「イタリア人は子どもを甘やかしすぎ」
 そしてプンタ・ライシ空港に到着。またの名をファルコーネ=ボルセリーノ空港と言いますが、これには謂れがあります。
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 『シチリアへ行きたい』(小森谷慶子/小森谷健二 とんぼの本 新潮社)から引用します。

 そして東西冷戦期、キリスト教民主党が社会共産主義を逼塞させて国家権力を握ると、マフィアはこの党に癒着して公共事業や建築などの認可に関わる汚職で儲け、さらに儲けの大きい麻薬取引にも手を出し始めた。中東産のけしをシチリアでヘロインに加工してアメリカに送るという米伊マフィアの合意が1957年、パレルモのホテル・デ・パルメにおいて成立し、ピッツァ・コネクションと呼ばれるようになる。
 儲けが大きくなるにつれ、マフィアのファミリー間抗争が激しさを増し、70年代の終盤には年に千人の死者を出した。
 このような状況の中、マフィアに対して遂に国防省憲兵隊(カラピニエーリ)の将軍ダッラ・キエーザ(テロ集団赤い旅団検挙による国民的英雄)が送り込まれた。だが1982年春に赴任してからわずか四ケ月後、市中を走行中銃弾の雨を浴びて絶命する。そして翌年、パレルモ地検内に結成された反マフィア特捜班のキンニーチ判事も爆殺された。だが特捜班の闘いは続いた。そして転機がやって来た。同じく1983年、南米で逮捕された大ボスのトンマーゾ・ブシェッタが、特捜班のファルコーネ判事によって悔い改め、「名誉ある社会」の内情を暴露したのである。同判事はそれをもとに1986年から翌年にかけての大裁判で450人以上ものマフィアを起訴し、世界中を騒然とさせた。
 追い詰められたマフィアの報復によって殺された人の数は数えきれない。そしてついに1992年5月23日、アンチ・マフィアの権化ファルコーネ判事が、高速道路の陸橋に500キロの爆薬をしかけられ、妻と護衛もろとも爆殺された。次いで7月には同僚のボルセッリーノ判事も実家の戸口で爆殺された。直後、これを重く見た国防省は七千人の兵をシチリアに送り込み、一年半にわたってマフィア根絶作戦(晩?作戦と呼ばれた)をくりひろげた。翌年には凶暴な大ボス、トト・リーナが逮捕され、2006年春には、最後の大ボス、ベルナルド・プロヴェンツァーノがコルレオーネ村の羊飼い小屋で逮捕された。一方、市民の間でもみかじめ料不払いや学校教育など、地道な反マフィア運動が行なわれている。
 今日、空路パレルモに入る旅人は、荒々しい禿げ山を背にして青い海に臨む空港に降り立つ。その空港が、マフィアの脅しに決してひるまなかった二人の判事の名を冠し、ファルコーネ・ボルセッリーノ空港と呼ばれていることを忘れてはならない。(p.73)

 イタリアの闇の歴史ですね。それと果敢に闘って殺されたファルコーネ判事とボルセッリーノ判事、この二人の名前を冠した空港がシチリアにあることは忘れません。

by sabasaba13 | 2025-08-19 07:05 | 海外 | Comments(0)
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