『マリウポリの20日間』

 [座・高円寺]ドキュメンタリーフェスティバル、本日の二本目は『マリウポリの20日間』です。公式サイトから紹介文を転記します。

 ロシアによる侵攻を受けたウクライナ東部の都市・マリウポリ。その市内で、戦火にさらされた人々の惨状を命がけで記録し続けたウクライナ人ジャーナリストたちがいた。ロシア・ウクライナ戦争を含む、国際紛争の取材を10年近く経験したAP通信記者・ミスティスラフ・チェルノフと、その取材チームである。彼らはマリウポリ市内に残る唯一のジャーナリストとして、死にゆく子供たちや山積する民間人の遺体、産科病棟への爆撃などを克明に記録し続けた。
 本作は彼にとって初の長編映画であり、チェルノフが現地から配信したニュース、そして彼らが撮影した戦時下のウクライナ・マリウポリ市内の映像をもとに制作されている。日本時間3月11日に発表された第96回アカデミー賞では長編ドキュメンタリー賞を受賞し、ウクライナ映画史上初のアカデミー賞受賞作となった。授賞式でチェルノフは、「この映画が作られなければよかった」とし、「すべての人質、兵士、民間人が解放されることを願っている。歴史を変えることはできない。過去も変えることはできない。しかし、我々が共に立ち上がれば、歴史の記録を正し、真実を明らかにし、マリウポリの人々や命を捧げた人々が決して忘れ去られないようにすることができる。映画は記憶を形成し、記憶は歴史を形成するのですから」と力強く語った。
 この作品は、包囲下の人々が経験した痛ましい惨状の記録であり、同時に、紛争地帯からの報道がどのように行われていたのか、そして、彼らが配信し続けた報道が世界に対してどのような影響を与えたのかを知る機会を与えてくれる。

 2022年2月、ロシアがウクライナ東部に位置するマリウポリへの侵攻を開始。これを察知したAP通信のウクライナ人記者であるミスティスラフ・チェルノフは、仲間とともに現地に向かった。
 ロシア軍の容赦のない攻撃による断水、食料供給、通信遮断…瞬く間にマリウポリは包囲されていく。海外メディアが次々と脱出していく中、彼らはロシア軍に包囲された市内に残り、死にゆく子供たちや遺体の山、産院への爆撃など、侵攻するロシアによる残虐行為を命がけで記録し、世界に発信し続けた。
 徐々に追い詰められていく中、取材班はウクライナ軍の援護によって、市内から脱出することとなる。滅びゆくマリウポリと戦争の惨状を全世界に伝えるため、チェルノフたちは辛い気持ちを抱きながらも、市民を後に残し、脱出を試みた…。

 最初から最後まで、ヒリヒリとした緊張感に充ち、そして恐怖と怒りを覚える映画でした。一般市民が暮らす市街地を容赦なく襲うロシア軍の砲弾やミサイル。逃げ惑い、避難し、怯え、泣き叫び、傷つき、殺されていく女性や子どもや老人たち。チェルノフ監督は、この虐殺を世界に伝えるべく、その一部始終にカメラを向けて記録していきます。
 彼とスタッフたちは病院を拠点として活動しますが、やがてその病院も攻撃の対象とされます。電気も水もなく、医薬品も不足する過酷な状況のなかで、懸命に治療を行なう医師たち。その甲斐もなく死んでいく人びと。葬儀や埋葬もできずに地下室に安置される多くの遺体。ある医師は監督を地下室に連れていき、布にくるまれた乳児の遺体を見せて、「この子を撮影して、世界へ、プーチンに見せてくれ」と怒りの表情でつめよります。
 こうした混乱のなかで、商店に押し入り略奪を行なうマリウポリ市民の姿も、監督は冷徹に記録します。「戦争はX線だ。人間の内部をあぶり出す」というある医師の言葉が印象的でした。
 また撮影をする際に、チェルノフ監督がその対象となる人に必ず名前を尋ねていたのも心に残りました。犠牲者を数百人、数千人という数字でとらえるのではなく、名前があるかけがえのない個人なのだという監督の思いが伝わってきます。

 チェルノフ監督の次の独白が、重いメッセージでした。

 娘に「パパは戦争をとめるために何をしたの?」と訊かれた時に、その答えを持っていたい。

『マリウポリの20日間』_c0051620_11282986.jpg

 上映終了後に、大島新氏(ドキュメンタリー監督)と山崎裕氏(プログラムディレクター)によるトークがあったので、私の文責でまとめておきます。

 ウクライナ映画史上、アカデミー賞を初めて受賞した作品である。チェルノフ監督の「この映画が作られなければ良かった」というスピーチが印象的だった。
 ジャーナリズムに何ができるのかということを、考えさせられた。
 ナレーションがウクライナ語ではなく英語だった。世界へ伝えたいという思いだろう。
 市民による略奪のシーンをあえて使ったことには目をみはった。
 クローズアップではなく中引きによる撮影が多い。記者として客観的な視点を保とうとしてのだろう。その一方で編集の技術を駆使して、より面白い映画にしようという意図も感じられた。できるだけ多くの人に観てもらい、行動の変容を促したいということではないか。
『マリウポリの20日間』_c0051620_11305034.jpg

 鑑賞後、『ウクライナ戦争』(小泉悠 ちくま新書1697)を読みましたが、下記の一文を紹介します。

 しかし、それでもこの戦争の第一義的な責任はロシアにある。その動機は大国間のパワーバランスに対する懸念であったかもしれないし、あるいはプーチンの民族主義的野望であったかもしれないが、一方的な暴力の行使に及んだ側であることには変わりがない。開戦後に引き起こされた多くの虐殺、拷問、性的暴行などについては述べるまでもないだろう。
 この点を明確に踏まえることなしに、ただ戦闘が停止されればそれで「解決」になるという態度は否定されねばならない。これはウクライナという国家が置かれた立場をめぐる道義的な議論にとどまらず、我が国が戦争に巻き込まれた場合(あるいは我が国周辺で戦争が発生した場合)にそのまま跳ね返ってきかねない問題だからである。それゆえに、日本としてこの戦争を我が事として捉え、大国の侵略が成功したという事例を残さないように努力すべきではないか。軍事援助は難しいとしても、難民への生活支援、都市の再建、地雷除去など、できることは少なくないはずだ。(p.232)

 まず何よりも停戦、そしてロシアによる国際法違反の責任追及。そして大国の侵略が成功したという事例を残さない。まったくもって同感です。ただ最後の点については、某国が山のような事例を積み上げているからなあ。まずこの国を何とかしなければ。

 追記です。3月3日にNHKで放映された「映像の世紀 独ソ戦」で、スターリングラードの戦いに従軍したドイツ軍医クルト・ロイバーが家族に宛てた、寒からしめる手紙が紹介されました。プーチン大統領に献呈します。

 我々はみな平和を願い、平和に憧れているが、実際には何を望んでいるのだろうか。今なお武器をとって敵を倒すことだけが、自分の主張を貫くための手段と考えてい人ばかりだ。もう次の戦争のことを考えてでもいるのだろうか。我々はみな、将来は良心の声に従って生きるのだろうか。もし前と変わらぬまま、心の奥底に何の変化もないままなら、我々はこれほどまで深刻な体験をしたにもかかわらず、もはや人として生きるのは値しないだろう。

by sabasaba13 | 2025-08-26 06:48 | 映画 | Comments(0)
<< 『蒼(そらいろ)のシンフォニー』 『はじけ鳳仙花 ~わが筑豊わが... >>