言葉の花綵316

 文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終幕に直面している。アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である。しかもこのことが、なぜ今日では詩を書くことが不可能になってしまったのかを教える認識をさえ蝕んでいるのだ。精神の進歩をもおのれの一要素として前提するような絶対的物象化が、今やこの精神を完全に呑みこもうとしている。(『プリズメン』 テオドール・アドルノ)

 生まれて来ないのが何よりもましだ。が、この世に出て来てしまった以上はもとのところに、なるべく早く帰ったほうが、それに次いで、ずっとましだ。(ソポクレス)

 私は猫に対して感ずるような純粋なあたたかい愛情を人間に対していだく事のできないのを残念に思う。そういう事が可能になるためには私は人間より一段高い存在になる必要があるかもしれない。それはとでもできそうもないし、かりにそれができたとした時には私はおそらく超人の孤独と悲哀を感じなければなるまい。凡人の私はやはり子猫でもかわいがって、そして人間は人間として尊敬し親しみ恐れはばかりあるいは憎むよりほかはないかもしれない。(寺田寅彦)

 君はぼくのいまやっていることを見ているだろう。かばんのなかにすきまができたから、そこへ乾草をつめているんだ。ぼくらの人生のかばんもそんなもんだよ。すきまがないように、なんでもいいからつめこまなければならないんだ。(『父と子』 イワン・ツルゲーネフ)

 たしかに、ある意味では、知識人とは、もともといつでも、戦う前からすでに敗北しているもの、いわば、永遠なる敗北を宣告されたシジフォスのごときものであり、勝利している知識人なんぞというものがうさんくさいのです。ところがまた一方では、べつの、もっと深い意味において、知識人は、自己のあらゆる敗北にもかかわらず敗北しないでいる-シジフォスのように-とも思います。まさに自己の敗北によって勝利するのです。(ヴァーツラフ・ハヴェル)

 夫れ山に入りて仙となるも、世に何の益かあらん。社会紛擾の中にあり、若くは争闘苦戦の中に立ちながらに、即ちキルが如く、ミガクが如く、トグが如くして、此苦中にあって仙と化するを得ば、自然社会にも益あらんと存候。之は即ち浅学なる不肖目下の信仰にて候。(田中正造)

 私は自分の心の中に、死にゆく人々の最後のまなざしをいつも留めています。そして私は、この世で役立たずのように見えた人々が、その最も大切な瞬間、死を迎える時に、愛されたと感じながら、この世を去ることができるためなら、何でもしたいと思っているのです。(マザー・テレサ)

by sabasaba13 | 2026-01-12 08:00 | 言葉の花綵 | Comments(0)
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