point of no return

 自由民主党の圧倒的勝利、そして高市内閣の継続か… 蓋をあけてみれば政策論争に欠けた、850億円をかけた人気投票でしたね。理由はまったく分からないのですが高市氏の人気が群を抜き、そのおこぼれで自民党が圧勝したということでしょう。
 それにしても議論すべき政策や問題は多々あったはずです。政治とカネの問題、旧統一教会との関係、中国との関係改善、無法なトランプ政権やネタニヤフ政権に対する対応、気候危機対策、原発についての議論、防災・減災対策、福島や能登の復興についての議論、莫大な軍事費の可否、そして何よりもいかにして戦争を防ぎ平和を守るか。こうしたきわめて重要な論点がぜーんぶ雲散霧消して、人気投票で終わってしまいました。呆れて開いた口が塞がりません。
 英紙「タイムズ」も呆れているようです。クーリエ・ジャポン(26.2.7)から引用します。

英紙が皮肉タップリの記事を掲載「日本で選挙に勝ちたければ『はっきり話して、何も言うな』」

 明日2月8日に迫った衆議院選挙の投開票。海外メディアでも日本の選挙は取り上げられているが、なかでも英紙「タイムズ」は辛辣なタイトルで記事を掲載している。「選挙に勝つ方法:はっきり話せ、しかし何も言うな」である。同紙記者のリチャード・ロイド・パリーは高市早苗首相の選挙戦を、政策論争ではなく"熱狂の作法"だとして描いている。
 記者が注目したのは支持者たちの言葉だ。取材に応じた若い女性は高市を好む理由を「彼女はとてもはっきり話す」と言い、その友人の女性は「親しみやすい」「距離が近い」と評する。語られているのは政策の是非ではない。どんな国を目指すのかよりも、「どう感じさせてくれるか」が先に立つと記者は指摘する。
 記事内で象徴的に描かれているのが、政治家が"推し活"の対象になり、支持が購買行動まで動かす現象だ。支持者が注目するのは、演説の中身だけではない。バッグ、ペン、スキンケア。高級ブランドでもなく、日用品のような小物が"手の届く推し"として消費され、話題になる。記者は日本語の「推し活」に重ね、ここ数週間で「Sana-katsu(サナ活)」という新語まで現れた、と書く。
 記者が見ているのは無邪気にも見える熱狂だけではない。2週間という短い選挙期間のなかで、肝心の争点が議論されないまま進んでいく空気が、繰り返し指摘される。対中関係、消費税を下げるのか、移民政策をどうするのか──日本社会の不安に関する論点が、正面から語られないまま勝利を掴みつつある自民党についてこう紹介する。
 「この段階で高市は、実質的なことを言う必要がない。彼女は"存在"すればいい」

 この人気投票の結果を「政権への白紙委任」とこじつけて、高市氏は自民党・日本維新の会連立政権合意書に記した政策を粛々と実行していくことでしょう。

 ①スパイ防止法
 ②対外情報庁創設
 ③「5類型」撤廃
 ④防衛力の抜本的強化
 ⑤憲法改正
 ⑥日本国国章損壊罪
 ⑦皇室典範改正
 ⑧旧姓使用法制化
 ⑨外国人政策の厳格化

 高市氏に巨大な支持を与えてことによって、日本は帰還不能点(point of no return)を越えてしまったのか、まだ引き返せるのか、SNSやAIに頼らず任せず自分の頭で考えましょう。
 たとえ越えてしまったとしても、できうる限り安全な不時着をするための手立てを考えましょう。

 調べて、話し合い、考えましょう。

 この恐るべき結果を知り、私の脳裡には伊丹万作の警句がすぐに浮かびました。

『伊丹万作エッセイ集』(大江健三郎編 ちくま学芸文庫)
「戦争責任者の問題」 1946(昭和21)年8月 『映画春秋』創刊号
 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
 「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
 「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追及ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。(p.97~8)

 夏目漱石の言葉も胸に刻みましょう。彼の日記(1901.3.21)に記された一言です。

 汝の現今に播く種は、やがて汝の収むべき未来となって現わるべし。

by sabasaba13 | 2026-02-09 07:01 | 鶏肋 | Comments(0)
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