0円対60兆円

 また3月10日がやってきました。これまでも「東京空襲資料展」、「東京大空襲」、「東京大空襲2」、『東京大空襲の戦後史』(岩波新書)、映画『ペーパーシティ』といった記事を上梓してまいりましたので、よろしければご照覧ください。

 今回はもっと鳥瞰的な視点からこの空襲について考えたいと思います。本稿のタイトル、"0円対60兆円"とは何を意味するでしょう。『東京新聞』(26.2.25 夕刊)から引用します。

松原耕二のハードトーク 「受忍論」国民の選択? 底流に強い同調圧力

 この1年間、私は旅をしてきた。少し大げさに言えば「私たち日本人は何者なのか」を問い続ける取材の旅だ。
 きっかけはおととし12月、ノーベル平和賞の授賞式でのスピーチだ。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の田中煕巳さんが冒頭、核廃絶に触れる前に自分たちの運動をこう振り返ったのだ。「日本政府の『戦争の被害は国民が受忍しなければならない』との主張にあらがってきた」
 「0円」対「60兆円」。これは受忍論-「国家の非常事態である戦争では国民はその被害を等しく受忍しなければならない」という考え方を象徴する数字として使われる。
 原爆のみならず、東京大空襲をはじめとする空襲の被害者たちへの補償は全く行われてこなかった。その一方で軍人や軍属、その家族には戦後、60兆円もの恩給が与えられてきた。その中でも最高額を受け取る資格があったのは東条英機、つまり戦争責任が最も重かった人物が最も手厚く、その遺族も国から補償され続けてきたのだ。
 なぜそんな不条理がまかり通ってきたのか。いや、今もまかり通っているのか。そんな問いを補償行政に携わってきた官僚や政治家、憲法学者、空襲被害者ら多くの関係者に投げかけ続けた。さらには同じ敗戦国ながら日本とは対照的な対応をしたドイツを訪れ、多くの人の話に耳を傾けた。彼らの言葉は私を時にうなずかせ、時にはっとさせ、時にさらなる葛藤の渦に引きずり込んだ。その中で私の心に最も重くのしかかったのは、旅の途中でふと浮かんだひとつの問いだった。「日本人は受忍を強いられたのではなく、自ら進んで受忍しているのではないか」
 受忍論がまかり通ってきた背景のひとつは、戦争責任のあいまいさだ。戦後の選挙で旧軍人らが次々と当選して国会に出てきたのは「国民の側も戦争を総括する姿勢が弱かったからだ」と昭和史を研究する保阪正康さんは指摘する。そしてその弱さは「戦争に巻き込まれていく弱さとも通じている」と。
 震災が起こるたびに日本人が文句ひとつ言わず、耐え忍ぶ姿に海外から称賛の声が上がる。ただ現場で取材すると、避難所で相も変わらず劣悪な環境しか提供できない国や自治体を許しているのも、この我慢強さではないのかとも感じてしまう。同調圧力の強い社会では、出るくいは打たれる。そこでは「お上」に異議申し立てする個人は、往々にして冷ややかな視線にさらされる。戦後の憲法で国民が主権者と定められたけれど、私たちの底流にある意識は本当に変わったのだろうか。
 今回の唐突な衆議院解散も世論調査では反対が多かったにもかかわらず、すぐにこれを追認するかのように、熱狂とでもいうべき"高市人気"が自民党を大勝に導いた。
 受忍論の正体は何なのか。それは過去ではなく、自分たちの行く末を考えることだと取材を終えた今、強く感じる。私の旅はまだ終わっていない。(ジャーナリスト)

 愕然とします。国家権力のために働いた者(60兆円)と、そうでない者(0円)との、この目が眩むような懸隔。つくづく近現代日本を理解し解きほぐすためのキーワードは「国家権力」だと考えます。国家権力にとっての利益が「国益」、その力が「国力」。そして「国益」を増やし、「国力」を強めるための施策が「国策」ではないでしょうか。そして国家権力を構成する方々は、国策の決定に際して民草の意見を決して聞かず、また国策が間違っていても彼らはその責任を決してとらない。その間違って国策の結果、民衆にどれだけ多くの犠牲がでても、謝罪も補償もしない。ただひたすら我慢して耐え忍べ、つまり「受忍」しろと冷酷に突き放す。戦争しかり、経済成長のための公害しかり、そして核(原子力)発電所事故もしかり。
 民衆のための国家ではなく、国家のための民衆。これが近現代の、そして現在の日本の本質ではないでしょうか。ここで疑問とすべきなのが、松原氏が言われるように、なぜ人びとは、国家権力に屈従するのか。民衆を犠牲にし、その損害に対する受忍を強いる国家権力に従順なのか。

 わかりません。でも調べましょう、考えましょう、話し合いましょう。そして声をあげましょう。国家権力に強いられた犠牲を受忍するなんて、
 真っ平御免だ。

 追記です。『東京新聞』(26.3.14)に下記の記事と写真が掲載されました。これは貴重なものですね、ぜひ紹介します。

一枚のものがたり 加古陽治記者 東方社の屋上から見た夜間空襲(1945年3月10日) 燃え上がる空のその下で
<一枚のものがたり>菊池俊吉

 夜の街に数カ所、火の手が上がっている。その向こうの空が薄くなっているのは、遠くで燃え上がる炎で明るくなっているためだろう。よく見ると、中央右下のビルの屋上には、燃える街を見つめる人々らしき姿が写っている。
 一枚の写真は、1945(昭和20)年3月10日未明、東京・九段にあった8階建てのビル屋上から撮られた。撮ったのは、陸軍参謀本部統括下で対外宣伝誌「FRONT」を発行していた「東方社」のカメラマン菊池俊吉(1916~1990年)。東京大空襲・戦災資料センターの学芸員石橋星志(43)によると、東京大空襲のさなかに撮ったことが確定している写真は、菊池のものしかない。
 当時28歳の菊池はこの夜、どう行動したのか。追悼文集「菊池俊吉さんを偲んで」に、本人の言葉があった。「いやあ、あの時は命拾いしましてね」。そう言って編集者に語り出したのは、次のような?末だった。9日夜、菊池は千葉の友人に「酒を飲める所があるから来ないか」と誘われ、千葉に出かけて飲んだ。夜遅く電車で家のある田端に帰り、高台から振り返ると、途中まで乗ってきた総武線の辺りの空が真っ赤になっている。「もう少し遅れていたらつかまっていたんだ。ということで、ぞっとしました。それから、カメラをかついで出かけたわけです」
 東方社で菊池の助手だった浅野隆(1925~2013年)の証言(「ドキュメント東京大空襲 発掘された583枚の未公開写真を追う」)によると、10日午前1時ごろ、宿直の浅野が休もうとしていたら菊池が駆け込んできて、「空襲だ、出るぞ」と言った。2人で隅田川まで歩き、「燃えている人間」が川に飛び込むおぞましい情景を見た。菊池は「暗くて、写らない」と叫びながらシャッターを切り、しばらくして浅野にフィルムを渡し「会社へ戻って、急いで現像しろ」と指示した。しかし、帰る途中で浅野の服に火が付いて燃え上がる。浅野は無我夢中で防火水槽に飛び込み、水に漬かったフィルムが駄目になった。
 屋上からの撮影についての証言はない。考えられるのは、カメラを取りに会社に戻った菊池が、まず屋上に上がって本所、深川方面を撮影し、それから浅野と現場に向かったということだ。
 写真に浮かぶ赤い空の下で、何があったのか。千葉県松戸市の歌人佐方三千枝(85)は、その渦中を生き延びた一人だ。「零時八分(空襲警報発令前)深川区木場二丁目ニ最初ノ空襲火災発生」。佐方の一家が暮らしていたのは、木場3丁目。警視庁消防部の記録で最も早く火の手が上がったとされる地区の隣町だった。
 「父は黄紙(技術召集)の召集令状が来て中国の海南島に出征していて、祖母と母と1歳5カ月の弟と4人暮らしでした。夜中にサイレンが鳴って起こされて、私はおばあちゃんに、弟は母に連れられてとにかく逃げて」。火に囲まれる中で防空壕の縦穴を見つけ、防火水槽の水を入れて一家で漬かった。上の方にいた人は火になめられて亡くなった。「ドロドロで気持ち悪いと思ったの。寒いと思ったのも覚えているけど、朝にはお湯になっちゃって、お風呂に入ってるような状態で」。夜が明けて穴を出ると、街は焦土と化し、地面が熱かった。母はやけどを負った胸に弟を抱き、お乳を与えた。だが泥水を飲んだ弟は肺炎にかかり、やがて息絶えた。
 菊池は戦後、旧文部省の原爆調査団が委嘱した記録映画の撮影チームに同行し、被爆後の広島の写真を撮影した。その後、木村伊兵衛らと設立した文化社を経てフリーとなり、科学雑誌で科学者を撮ったり、教科書の写真を撮ったりした。しかし90年10月、白血病と診断され、間もなく逝った。
 長女の田子(たご)はるみ(69)によると家では寡黙で、戦時中のことは語らなかった。だが、別の編集者には、こう語り残していた。
 「強い自己主張をできるような状況でなかった。しかし、可能なかぎり冷静に、客観的な眼でそのときどきの状況を記録することを心掛けた」(敬称略)
0円対60兆円_c0051620_06522629.jpg

by sabasaba13 | 2026-03-10 07:09 | 鶏肋 | Comments(0)
<< 岩波友紀写真展 Blue Pe... Tansa:高市首相は今すぐ怒れ >>