そしてタクシーに乗り込み、
寂光院に到着。ここでタクシーとはお別れです。門前には大原女(おはらめ)の
顔はめ看板がありました。

その近くには「阿波内侍がモデルの大原女発祥の寺」と記された看板。へえー知らなかった。

いま、インターネットで「
大原観光保勝会」を見てみると下記の説明がありました。
大原女は、頭に「柴」を乗せて、京の町へ行商に出かけた大原の働く女性のことです。大原女の服装は時代を遡ると、平安時代、寂光院に穏棲された建礼門院に仕えた阿波内侍(あわのないし)が山仕事をする際に着ていた衣装がその原型と言われています。
はい、勉強になりました。なおこの看板を見た山ノ神から「"あわうちざむらい"って何?」と訊かれたので簡単に説明しました。本人曰く"ギター侍"みたいなものと思っていたそうです。
ま、それはさておき、拝観いたしましょう。楓はそれほど多くはありませんが、木柿葺(こけらぶき)の本堂や山門、四方正面の池、苔むした屋根の門など、風情のある物件が紅葉を引き立てていました。

なお「建礼門院御庵室跡」の解説が、建礼門院徳子の晩年をよくまとめてあるので転記します。
ここは建礼門院御庵室跡と伝えられるところです。右手にある御使用の清水は、今もこんこんと湧き水をたたえています。
『平家物語』のなかの悲劇のヒロイン建礼門院徳子。権勢を誇った平相国入道清盛の二女に生まれ、高倉天皇の中宮となって御子安徳天皇を生みました。絶頂の日々もつかの間のことでした。源平争乱が勃発するや、6歳の安徳天皇を奉じて平家一門とともに西国い赴くこととなり、ついに文治元年(1185)3月長門壇ノ浦での合戦に義経軍に敗れました。女院は安徳天皇とともい入水しましたが、一人敵に助けられて生きながらえて京都に送還され落飾されました。秋も押しせまった9月末になって憂きことの多い都を遠く離れた洛北の地大原寂光院に閑居し、昼夜絶えることなく念仏を唱えて夫高倉天皇とわが子安徳天皇、および平家一門の菩提を弔う日々を送りました。
文治2年(1186)の春、大原寂光院に閑居する建礼門院のもとを後白河法皇が訪れた話が、『平家物語』の最終を飾る「潅頂の巻」に載っています。法皇が見た女院の御庵室の様子は「軒には蔦槿(つたあさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」「杉の葺き目もまばらにて、時雨も霜もおく露も、もる月影にあらそひて、たまるべしとも見えざりけり、後ろは山、前は野辺」という有様で、「来る人まれなる所」でした。
突然の法皇の行幸に、女院は翠黛山に女房らと花摘みに行って留守でした。侍女の老尼阿波内侍に案内を請うて御庵室の中を御覧になった法皇は、一丈四方の仏間と寝所だけという昔の栄華に比べて余りの簡素な生活にただただ落涙するばかりでした。しばらくして花摘みから帰ってきた女院は、はじめ逢うことを拒みますが、阿波内侍に説得されて涙ながらに法皇と対面します。先帝や御子や平家一門を弔いながらの今の苦境は後世菩提のための喜びであると述べ、六道になぞらえて己が半生を語る女院に、法皇はじめ供の者も落涙するばかりでした。
建久2年(1191)2月中旬のころ、女院はこの地で往生の時を迎え、侍たちに看取られてその生涯をそっと閉じました。

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