スピルバーグ監督の「ミュンヘン」を見てきました。パレスチナ問題と暴力の連鎖に真っ向から取り組んだ、真面目な骨太の映画です。1972年、ミュンヘン・オリンピックでイスラエル選手が、パレスチナ人組織「黒い九月」によって政治犯釈放のために人質とされ、全員殺害されたシーンからはじまります。その報復のためにイスラエル政府がモサド(秘密諜報機関)に命じて、事件の首謀者11人の暗殺を命じます。そのために五人のユダヤ人が選ばれチームを組んで、次々と暗殺を行っていくというストーリー。はじめのうちは、暗殺されるパレスチナ人の「顔」を映画では描きこんでいます。「千夜一夜物語」をイタリア語に訳し、牛乳を買いながら談笑する人、ピアノを習う娘を愛しむ人… しかし暗殺が繰り返されるにつれ、そうした描写はなくなり、殺される標的としてしか描かれなくなります。他者のもつ「顔」が見えなくなり、「われわれ」と「あいつら」という単純な二分法に陥った時に、人間は暴力や殺戮に対して無感覚になっていくのかもしれません。 やがてパレスチナ側からのユダヤ人に対する報復も激化し、それがさらに彼らをヒート・アップさせていきます。しかし偶然パレスチナの青年と語らう機会を得た主人公は、こうした暴力と殺戮の連鎖に疑問をもちはじます。たぶん「顔」をもったパレスチナ人と向き合ったのは、これがはじめてなのでしょう。同じ疑問をもつ仲間も増えていきますが、暗殺は続行されます。やがて爆弾を恐れてベッドを切り裂き、TVや電話を解体するなど、報復を恐れる彼の精神は蝕まれていきます。このあたりの主演エリック・バナの演技は鬼気迫るものですね。そしてほぼ任務に成功し帰国した彼は、モサドをやめ妻子とともにニューヨークに移住していきます。 料理が大好きな若きリーダー(主人公)が、子供が生まれたばかりの愛妻家という設定がいいですね。仲間に料理をふるまい、ショー・ウィンドウでシステム・キッチンを凝視する彼の姿に、人種や宗教の違いに関係なく「愛する人と共に食事をする」ことが人間にとって大事なのだというスピルバーグのメッセージを感じました。そうした人間の喜びを脅かす暴力の連鎖を、静かに糾弾した映画だと思います。 最後の場面で、NYにやってきたモサドの元上司を、主人公は夕食に誘います。「遠来の客を歓待することはわれわれの義務です」 しかし上司は「No」と断り去っていく。その背景に、今はなき世界貿易センターのツインタワー・ビルが遠望できます。パレスチナ人との共存を拒否したイスラエルの態度が、やがて9・11をもたらすと暗示しているのでしょう。 基本的に暗澹とした血生臭い映画なのですが、「殺す側」と「殺される側」の人間としての「顔」(生活・家族・喜怒哀楽…)をきちんと描いていることで救われます。パレスチナ問題についてコメントをする能力はないのですが、お互いの、同じ人間としての「顔」を知るということが暴力の連鎖を断ち切るための第一歩ではないのかな。監督自身もタイム誌からのインタビューに応じてこう語っているそうです。 イスラエルとパレスチナの子供たちに、ビデオカメラを配る計画があるんです。それで、お互いの日常を撮影してもらって、それを交換するんです。そうすれば、お互いが、どんな生活をしていて、何を着たり、どんな音楽を聴いたりしているのかが分かるでしょう。スピルバーグは本気で中東和平に取り組もうとしているようです。メディアの責任も重大ですね。次は、こうした暴力の連鎖により世界に恐怖と不安と憎悪が満ち溢れることによって、利益を得る側を描く映画を期待します。 余談ですが、1972年頃といえば、ちょうど私がポップスに夢中になっていた時期です。爆弾のスイッチを押す直前に「パパ・ワズ・ア・ローリング・ストーン」を口ずさんだり、ベイルートでバンドが「ブラック・マジック・ウーマン」を演奏するシーンには、おもわずニヤリとしてしまいました。また主人公のユダヤ人青年とパレスチナ人青年が、ラジオの音楽番組の選局で争い、最後にお互いに妥協できる曲を見出して微笑みあうというシーンもよかったなあ。 (中東和平もこんな風にいけばいいのですが…) 「音楽は何も変えることは出来ない。しかし音楽は何度でも人の心を救うだろう」という誰かの言葉が大好きなので、そうした観点からこの時代のポップ音楽をもっと取り上げてくれたら嬉しかったのですが。 それにしても、今年は現代世界の戦争や政治を描いた面白そうな映画が目白押しですね。「ホテル・ルワンダ」「イノセント・ボイス」「ジャー・ヘッド」などなど。やはり二期目を迎えたブッシュ政権に対する危機感の現れなのでしょうか、だとしたら嬉しいのですが。日本の映画人にもぜひ期待したいところです。イラク戦争―米軍基地と兵士―沖縄をテーマにした気骨ある作品をつくる、ガッツと識見にあふれるプロデューサーと監督はいませんかあ。 ヒットするかどうかでその国の知的レベルが明らかになる映画だと思います。さて日本ではどうかな。 ●「ミュンヘン」公式サイト http://munich.jp/
by sabasaba13
| 2006-02-11 07:40
| 映画
|
Comments(2)
はじめまして。やっぱり「ミュンヘン」のブログ書き込みや記事って多いですね。スピルバーグ監督の意図はこれだったんじゃないんでしょうか?テロ対策なんて普段考えも及ばないようなHanaも、パレスチナやユダヤの歴史や今までの経緯とかを知ろうとしています。ユダヤのこと、難民のことに関心のない人たちに、中立の立場をとりながら、何かを問い掛けていく映画だったと思います。
0
こんばんは。歴史や世界に興味がない人には、この映画は単なるB級サスペンスにすぎないでしょうね。CIAがテロリストを抱えているのではというご指摘、ほぼ間違いないと思います。以前書評で紹介しました「アメリカの国家犯罪全書」を読むとよくわかります。よろしければご笑覧ください。
http://sabasaba13.exblog.jp/1644163
|
自己紹介
東京在住。旅行と本と音楽とテニスと古い学校と灯台と近代化遺産と棚田と鯖と猫と火の見櫓と巨木を愛す。俳号は邪想庵。
カテゴリ
以前の記事
2025年 12月 2025年 11月 2025年 10月 2025年 09月 2025年 08月 2025年 07月 2025年 06月 2025年 05月 2025年 04月 2025年 03月 2025年 02月 2025年 01月 2024年 12月 2024年 11月 2024年 10月 2024年 09月 2024年 08月 2024年 07月 2024年 06月 2024年 05月 2024年 04月 2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 2022年 05月 2022年 04月 2022年 03月 2022年 02月 2022年 01月 2021年 12月 2021年 11月 2021年 10月 2021年 09月 2021年 08月 2021年 07月 2021年 06月 2021年 05月 2021年 04月 2021年 03月 2021年 02月 2021年 01月 2020年 12月 2020年 11月 2020年 10月 2020年 09月 2020年 08月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 05月 2020年 04月 2020年 03月 2020年 02月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 お気に入りブログ
最新のコメント
最新のトラックバック
検索
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||