「20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す」(宮下誠 光文社新書234)読了。1960年代生まれの若い研究者の活躍が目立ちますね、嬉しく頼もしい限りです。まだまだこの国も見棄てたものではない、と安堵します。音楽史の
岡田暁生氏、思想史の
小熊英二氏、そして美術史の宮下誠氏。
私は20世紀絵画に特段の苦手意識はもっていないつもりです。高校時代に教科書で読んだ小林秀雄の随筆に、「絵は何が描いてあるかわからないほど遠くから見る」という一節があり、成程「何が描いてあるか」よりも「どう描いてあるか」が大事なのだなと納得しました。以後、題材にとらわれず自分の眼力を頼りに、この作品は好き/良い、これは嫌い/良くない、と鑑賞してきました。その蒙を啓いてくれたのが本書です。
著者曰く、「好き嫌い」という判断基準で結びついた恋人や伴侶とは別れが待っている。しかし「相手を理解しようとする」というプロセスが介入すると、より豊かな人間関係に基づいて相手を見直すかもしれない。
本書は、芸術を好き嫌いではなく、いわば「より良くわかろうとする」真摯でジェントルな読者のための20世紀美術案内であろうとしている。
もちろん私は真摯でジェントルでもありませぬが、そうありたいとは常々願っています。その一歩として、本書を読んで、一皮むけた美術鑑賞ができるようになったような気がします、多謝。
例えば、ピカソの「アヴィニヨン街の娘たち」(1907)。概説書では、現代美術の地平を切り開いた作品としてよく取り上げられますが、著者はこの有名な作品の「隠された意味」を掘り下げて、より良く理解しようとします。西瓜・林檎・葡萄とヴァニタスの関係、トロンプ・ルイユ(だまし絵)を想起させるカーテン、マネやセザンヌの影響、あえて未完成としたことの意味… 芸術から何らかの認識や知恵を引き出すためには、それ相応の敬意と作法が必要だという著者の言葉を納得できる、見事な分析です。
ゴッホの「黄色い家」(1888)では、画面左下方と右中景にある、盛り上がったような褐色じみた黄色い部分に注目しています。何を描いているかよくわからない、ただそこに存在するだけの黄色い絵の具。ゴッホにだけ見えた光景なのか、あるいは画面全体の美を完成させるために必要な色だったのか。いずれにしても、「何を描いている絵か誰が見てもわかる」という伝統からの、大きな跳躍ですね。この絵は、アムステルダムにあるファン・ゴッホ国立美術館で見たはずなのですが、この黄色い部分については何の記憶もありません。己の未熟と浅学を思い知らされるとともに、向学心をかきたててくれる好著です。