「規制緩和という悪夢」

 「規制緩和という悪夢」(内橋克人とグループ2001 文藝春秋)読了。1993年11月、細川護煕首相の私的諮問機関「経済改革研究会」(座長は平岩外四経団連会長)が規制緩和の必要性を唱えると、多くのマス・メディアがそれに呼応して「きせいかんわきせいかんわきせ…」という大合唱をはじめたのは記憶にも新しいところです。しかし規制緩和が本当に日本経済の救世主となるのかどうか、中間報告の直後に内橋氏を中心とするジャーナリストが検証したのが本書です。彼らが恐れた悪夢が現実のものとなっている今こそ、読み返す価値があると思います。(実は絶版なのですが…申し訳ない)
 まずはいち早く規制緩和措置を導入したアメリカの航空業界の状況をレポートし、地方路線が撤廃され、また事故があいつぐなど、公共性と安全性が著しく損なわれたこと、そして凄まじい労働者の切捨てが行われたことを紹介しています。その先導役であったポール・デンプシー氏とジャーナリストであるドナルド・バーレット氏の言葉に耳を傾けてください。
 規制緩和とは、ほんの一握りの非情でしかも貪欲な人間に、とてつもなく金持ちになる素晴らしい機会を与えることなのだ。一般の労働者にとっては、生活の安定、仕事の安定、こういったもの全てを窓の外に投げ捨てることなのだ。(ポール・デンプシー)

 規制緩和とは、これまで公平なアンパイアのいたゲームからアンパイアをのけてしまうということだったのです。ゲームは混乱し、何でもありの世界になりました。ところが、多くの人々は「規制緩和」という言葉を経済学者が振りまいた時、ルールが変わってしまうということには無自覚でした。皆が、何となく良くなるという錯覚を持ったのです。結局、そうした人々はゲームから弾き出され、得をしたのは、権力の中枢にいてルールブックが変わることをよく自覚していた一握りの人々でした。(ドナルド・バーレット)
 付け加えるべき言葉もない見事な要約ですね。しかしそうした覆轍を故意か無知からか(多分前者)無視して、日本でも規制緩和が強行されました。本書はその経過、規制緩和万能論が燃え盛った背景、そしてすでに起こりつつあった労働者の生活の崩壊について、わかりやすく要領よくまとめてくれています。結局、規制緩和というのは、社会に対して不公正・不利益となる行為を大企業にさせないための歯止めをなくし、傍若無人に金儲けできるようにするための改革だったのですね。本当はそれとセットで独占禁止法の強化も図らねばならないのに、財界は逆にその緩和をも狙っているのがその証左です。そして大企業が肥え太れば、自営業・中小企業は潰されていく。また利潤獲得の手段とならない地方の人々は切り捨てられていく。そして労働者の生活を守ってきた規制も、利潤のためにどんどん穴をあけていく。現今のいかがわしい状況の原因をすべて規制緩和のせいにするつもりはありませんが、そのかなりの部分に責を負うと思います。そしてグローバリゼーションの名の下に、世界的な規模で同様のことが起きているのですね。

 さてそれではわれわれはどうするべきか。筆者も言っているように、「自己責任」という無責任な言葉でわれわれを切り捨てようとする官僚・政治家・財界諸氏から、まず「自己決定権」を取り戻すことでしょう。連中が勝手に決めたことを押し付けられて、責任をとれと言われたのじゃ身がもちません。そのためにも、胡乱なマス・メディアにふりまわされず、自分の頭でしっかりと考え、そしてとりあえず選挙に行くことかな。月並みですが。
 間違いないのは、このままだとこの列島がきわめて暮らしにくくなるということです。非情で貪欲な人間だけが大金持ちになれるってことは、他者を敵か路傍の石ころか金儲けの手段としてしか見ない社会だということです。こんな大人たちの姿を見て育った子供たちはどうなるのか。子供というのは(自分でも思い当たりますが)大人の言うことではなくすることを真似るものですよね。確証はされていないと思いますが、もし子供たちの問題行動が増えていると仮定したら、その原因は教育基本法ではないでしょう。

 あらためて昨日紹介した「国家とはなにか」の中の一文を思い出します。
 国家はみずからの保全と利益にかかわるかぎりでしか、住民の安全に関心をもたない。

by sabasaba13 | 2006-09-17 06:11 | | Comments(0)
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