テニアン・サイパン編(6):原子爆弾について(06.8)

 1943(昭和18)年2月、ドイツ軍はスターリングラードの戦いにおいてソ連軍に降伏し、以後ドイツの敗北は時間の問題となります。ヨーロッパ戦線における連合国側の勝利は、ソ連の頑強な抵抗(犠牲者は一千万人以上)とアメリカの軍需生産力によるものでしょう。ここから、ドイツが支配した国や地域を、戦後どうするかという問題が発生します。ソ連は、革命干渉戦争やドイツによる侵略などの苦い経験から、自国の安全のために勢力範囲を広げようとしました。アメリカ・イギリスはそれにより社会主義が広まりソ連の力が強くなると判断し、反発しました。連合国として協力してきたソ連と米英の関係にひびが入り、いわゆる冷戦が始まります。もう一つの問題は日本との戦争です。日本を降伏させるためには、満州に配置されている精強な関東軍を屈服させることが必要と考えた米英は、ソ連に対日参戦を求めます。これを受けて、ヨーロッパの戦後処理を決めたヤルタ会談(1945.2)において、ソ連のスターリンはドイツ敗北後2~3ヵ月後に日本に宣戦布告することを約束しました。
 その一方でアメリカ政府は、ナチス・ドイツが原爆開発を中止したことを知ってからも(1944.11)、科学者たちにはそれを知らせずそのまま開発を進めます。同時に、原子爆弾をドイツではなく日本に投下することが米英首脳部ではすでに合意されています。1944年9月に、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が「原爆完成の暁には、慎重考慮のうえにこれを日本に対して使用するものとす」とイギリスのチャーチル首相に述べています。
 さて、ルーズベルト大統領は、戦後の世界においてはソ連とアメリカの協調関係が重要だと考え、スターリンとの信頼関係を築こうとします。しかし1945年4月12日に彼は突然急死、副大統領のトルーマンが大統領に就任しました。ソ連はアメリカを脅かす存在であると考えたトルーマンは、軍事力でソ連を押さえ込もうとします。5月8日ドイツが無条件降伏をすると、日本をどのような形で降伏させるかが連合国にとって問題となります。この時点で、泥沼のように続く日中戦争(1937.7~)、太平洋戦線における苦戦、サイパン島陥落以後激しくなる本土空襲(1944.7~)などにより、日本の敗北も時間の問題でした。戦後に発表されたアメリカ戦略爆撃調査団の公式調査報告に「たとえ原子爆弾が投下されなかったとしても、たとえロシアが参戦しなかったとしても、さらにまた上陸作戦が計画もされず企図されもしなかったとしても、日本は1945年12月31日以前に必ずや降伏したであろう」とあります。マッカーサーやニミッツなどアメリカ軍の首脳部も同様の判断をしていました。しかし原爆開発が順調に進んでいると判断したトルーマンは、ソ連が日本に参戦する前に(※予定では8月8日)原子爆弾を日本に投下して、降伏に追い込もうと決断します。核兵器の威力をソ連に見せつけて戦後のアメリカの立場を強化するとともに、アメリカの軍事力のみで日本を屈服させることにより、戦後日本に対するソ連の影響力をなくすためです。トルーマン大統領の右腕、バーンズ国務長官は、5月にレオ・シラードに対してこう語っています。「米国の軍事力と原爆の力を示すならば、ソ連に米国の力の強さを印象づけて、ソ連を扱いやすいものにできるのではないか」 原爆の威力をソ連と日本に見せつけるためには、民間人の住む都市への投下がもっとも効果的です。こうして原爆の民間目標への早期無警告使用が、6月1日に暫定委員会によって大統領に勧告されます。そして7月3日、アメリカ統合参謀本部は、マッカーサーとニミッツに、「今後、京都、広島、小倉、新潟の四都市を絶対に爆撃するな」と命令します。原爆の威力を見せつけ、さまざまなデータを集めるために、原爆投下用にいくつかの都市を無傷の状態で温存したわけです。なお京都に投下した場合、日本人のアメリカへの憎悪が高まり、戦後ソ連に接近する恐れがあるので目標から外され、かわりに長崎が選ばれます。アメリカの美術学者であるラングドン・ウォーナーが重要文化財の多い京都・奈良・鎌倉を爆撃しないよう大統領に進言したという伝説がありますが、どうやら敗戦後のアメリカ占領時代に、日本人の反米感情をなだめるためにGHQがでっちあげたプロパガンダだったようです。

 本日の二枚は、鎌倉駅西口にあるウォーナー顕彰碑と、五浦美術文化研究所にあるウォーナー像です。
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by sabasaba13 | 2006-10-15 09:15 | 海外 | Comments(0)
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