「この後の者にも」

 「この後の者にも」(ジョン・ラスキン 岩波文庫)読了。申し訳ありませんが、絶版の本です。しかし中央公論社の「世界の名著」にも収録されているので、双方とも古本屋でわりと容易に手に入るのではないかと思います。John Ruskin (1819―1900) ターナーやラファエル前派運動を理解し擁護したイギリスの美術批評家です。同時に彼はヨーロッパ建築の基礎を支える労働者の生活に関心を示し、実践的立場から社会・経済・政治問題にも健筆を振るいました。1862年に刊行された本書はこの方面での代表作です。
 新自由主義、グローバリゼーション、構造改革、市場原理主義、規制緩和、呼び方はいろいろありますが、要するにあらゆるものを商品にして大企業が世界中で荒稼ぎするのを政府が陰に陽にバックアップするという動きが猖獗をきわめています。まるでチャールズ・ディケンズ(1812―1870)が「オリバー・トゥイスト」で描き、ウィリアム・ブレイク(1757―1827)が「ミルトン」の中で"悪魔の碾き臼"と喩えた、産業革命後のイギリス社会が全世界規模でよみがえったような錯覚を覚えます。市場メカニズムがフル稼働しはじめ、本来市場によって決定されるにはそぐわない人間(労働)や自然(土地)が商品化され、人々の暮らしやコミュニティを残忍なまでに破壊した時代ですね。なぜ第二次大戦後に欧米諸国ではじまった福祉国家を確立しようとする動きが廃棄されたのか、また当時と今とどこが似ていてどこが違うのか、もちろんきちんと考えるべき問題です。しかしこうした状況に当時の人々がどう立ち向かっていったのかを知ることも必要でしょう。というわけで、人間を破壊する市場メカニズムに対して真っ向から挑戦したのが本書です。下手な論評を加えるよりも、彼の叡智にあふれた言葉をできるだけ引用した方がよいと思います。ご一読あれ。
 この奇妙な機関(※人間)は、報酬の為めや、圧迫の下や、その他種類の如何を問わず、枡で計って与えられる様な燃料の力では、最大量の仕事を為すものではない。それは唯だ動機の力、云い換えれば人間の意志若しくば精神と云われるものが、それ独特の燃料、即ち愛情に依って、その最大の力を発揮させられた時に、初めて最大量の仕事を為すものなのである。

 虚偽で、不自然で、かつ破壊的な労働制度は、下手な職人がその仕事を半値で提供して、上手な職人の職を奪うとか、或は競走に依って、上手な職人をして余儀なく不当な賃金で仕事をなさしむるとか、こうした事の許されている時に行われるものである。

 商人はその商う物品の品質と、それを獲得乃至生産する手段とを徹底的に理解し、そしてあらん限りの智慧と力とを盡して申し分のない物質を生産乃至獲得し、それを最も必要とする地方に最低価格を以って分配する事を努めなければならない。

 「金持」となる術…、それは「自分自身だけを有利にして最大限度の不平等を確立する術」なのである。

 恐らく人間そのものが富とさえも考えられるかも知れない。

 凡ての富の究極の成果と完成とは、恐らく元気に満ちた、眼の輝いた、快活な人間を出来るだけ多数作るのに在る…

 諸種の国家的製造業の中で、良質の人間を製造することが、結局一番有利な事業だと云う事になりはしないか。

 「弱き者を弱きが為めに掠むる事」は、特に商業と云う形を取った窃盗なので、即ち人の労働なり、財産なりを、安い値段で買い取る為めに、その人の困窮に乗ずる事なのである。

 (富の)流れの勝手放題に流れ行くに委せて置けば、恐らくそれは、…あらゆる害悪の根源を培う所の水ともなるであろう。

 「価値ある」と云う事は、「生命に対して有益なる」と云う事である。真に価値ある、即ち有益なる物とは、その全力を挙げて生命の方に向う所の物なのである。物はその生命の方に向わざる程度、若しくはその生命の方に向う力を損ぜられたる程度に準じて、その価値を減ずる。そして物が生命と反対に向う程度に準じて、それは無価値ともなり、又は有害ともなるのである。

 富とは吾々が使用し得る所の有用なる物品の所有だ。

 個人にとっても、国民にとっても、死活の重要問題は、決して「どれ程の金を儲けるか」と云う事ではなくて、「その金を如何なる目的に費すか」と云う事である。

 生命を除いて富ある事なし… ここに謂う生命の中には、愛と、歓喜と、歎美とのあらゆる力を包含している。最も富める国とは、高貴にして幸福なる人々を最も多数養っている国の謂であり、最も富める人とは、自己の生命の機能を極限にまで完成した上に、更にその人格と財産とによって、他人の生命の上に、有益なる影響を最も広く及ぼしている人の謂である。

 常に明白にして避くべからざる大事実-あらゆる経済の根本法である所の事実-即ち一人の所有せる物を他人は所有し得ざる事、種類の何たるを問わず、使用され、消費された物は、一厘一亳の微に至るまでも、それと同量の人間の生命が消費されている事、そして斯く人の生命を費した結果が、現在の生命を保存し、若しくは現在以上に多量の生命を得る事になれば、それは活かして使われた事になり、若しそうでなければ、それはそれだけの生命を妨げたか、或は殺した事になる事-を牢記しなければならぬ。総じて物を買う際には、諸君は先ず、買う品物の生産者に如何なる生存状態を生ずるかを考慮しなければならぬ。第二には、諸君の支払う金額は生産者に対して正当であるかどうか、及びそれが正当な割合で生産者の手に収まるかどうかを考慮しなければならぬ。第三には、諸君の買う品物が、食物なり、智識なり、歓喜なりに対して、果たして如何程明白に役立つものであるかを考慮しなければならぬ。第四には、その品物はそもそも何人に、及び如何なる方法で、最も迅速かつ有効に分配され得るかを考慮しなければならぬ。そして凡て如何なる取引に於ても、徹底的な公明さと、約束の厳格な履行とを要求し、凡ての仕事に於て仕上げの完全と美しさとを要求すべきである。殊に凡ての市場商品の精巧さと純良さとを要求すべきである。それと同時に単純なる快楽を味い得る能力を体得し、又は教える方法、及び銭葵と赤熊百合との咲く途にも如何程清新味の存するかを示す方法、-即ち享楽の総量は味われる物の分量によるのではなく、味う力の溌剌性と耐久性とによる事を示すあらゆる方法を講ずべきである。

 統制と協力とは凡ての物に於て生命の法であり、無統制と競争とは死の法である。
 いかがでしょう。現在活発になりつつある「フェア・トレード運動」を想起させるような一文もあり、その先見性には驚愕します。私が特に好きなのは最後の言葉です。無統制と競争とは死の法である… 宮沢賢治が、農民の生活向上のためにつくった「羅須地人協会」の"らす"はやはり"ラスキン"からつけたのかもしれませんね。なおタイトルは新約聖書マタイ伝第二十章の下記の挿話からきています。
 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
 本日の一枚は、数年前に訪れた、コニストン湖のほとりにあるラスキン邸です。
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by sabasaba13 | 2006-11-24 06:04 | | Comments(0)
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